橋下大阪府知事は、政治家には珍しく自分を「僕」と話しますが、一人称の「僕」がいつごろから使われはじめたのか、府庁咲州庁舎のある大阪ベイエリアから見た朝日と一緒にご紹介しましょう。
大阪ベイエリア、日の出前の様子
私の調査によれば、自分のことを「僕」(ボク)と呼んだ最初の人物は、1851年頃、江戸遊学中だった吉田松陰(1830~1859年)です。
港の先に見えるビルの間から少しだけ覗いた太陽。これほど低い太陽の姿は、珍しいのではないでしょうか。
しかし、謙称としての「僕」は、漢書の韋玄成伝にあり、日本に入ってきたのは平安時代、その頃は「僕」をヤツガレと読み、江戸時代の文人にも使われていたようです。
望遠で見るとこんな感じです。
そのヤツガレ、「僕」を、ボクと音読みにしたのは、幕末の吉田松陰が最初という説を唱えたのは、山口県出身の直木賞作家、古川薫さんです。
ワイドで見るとこんな感じ。
松陰は、自ら主催した松下村塾で、「僕」(ボク)を使いはじめ、塾で学んだ藩士達(高杉晋作、久坂玄瑞等)が申し合わせたように一人称のボクを真似ています。
朝日の前にたちはだかるビルと、カモメ?
但し、長州藩士でも松下村塾に属さない桂小五郎(木戸孝允)や村田蔵六(大村益次郎)は「私」と言い、土佐の武市半平太や薩摩の五代友厚は、「小生」と言っていたようです。
朝日はそろそろビルの背後を離れます。アッ、左の海面に何かが飛びこみました。
ところが慶応年間(1866年頃)になると、薩摩の大山格之助(綱良)が高杉晋作との往復書簡に僕と書きはじめ、この頃から僕(ボク)が全国に普及しはじめたようです。
飛び込んだのは、大阪港を回遊するボラのようですね(左下)
「僕」(ボク)は、長州の奇兵隊で統一用語に定められたという説もありますが、古川薫さんの調査によれば奇兵隊の規約には無いそうです。
大阪港の水面に長く反射する朝日を見ることができるのは、夏至を挟む前後約1月間、去年の8月にもこのブログで紹介したことがあります。
しかし、初代総督の高杉がしきりに「僕」(ボク)を使ったので隊士がこれに倣い、彼らと接触した他の藩の人々にも自然と伝わり、新しい時代にふさわしい一人称として現代まで生き続けてきたようです。
橋下知事の使う「僕」(ボク)は、幕末から明治にかけて登場した新しい政治家が使うにふさわしい一人称呼称だったのです。
参考文献:花冠の志士 久坂玄瑞伝 古川薫著