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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



先日、阪急電鉄の創業者、小林一三(1873~1957年)が書いた「逸翁自叙伝」を読んで、中に仰天する内容があったので、大阪港の朝日と一緒にご紹介しましょう。



1907年(明治40年)、当時34歳の小林一三が阪鶴鉄道の監査役となり、阪鶴鉄道の清算事務に当たっていた際、同社の重役に名前を連ねていた36歳年上の土居通夫(1837~1917年)と出会っています。



当時、大阪商業会議所会頭だった土居通夫は、五代友厚、稲畑勝太郎とともに今も大阪商工会議所の前に銅像が建っている大阪財界の功労者です。



小林は、その土居通夫を「鴻池家の後光によって大阪財界の長老となり(中略)大阪電灯社長の他に兼務重役、相談役などの肩書を沢山持っていた。しかし阪鶴鉄道の重役会やちょっとした会合でも必ず出席する。会議中は居眠りして一言も発言しない」と書いています。



また、「原案賛成一本槍で毒にも薬にもならないから重宝な看板として各方面からかつがれている。かつて大阪在勤の裁判官だった土居翁は、原告と被告の陳述を聞いた後、いつも追って判決を下すであろうと宣告して退席した」といいます。



弁護士が、「裁判長結局どうなるのですか」と聞くと、毎回「早く決めようと思うのなら示談に限る」と見えを切った優柔不断な裁判長だったそうです。



小林が阪鶴鉄道の清算慰労金について「看板の重役より社員に厚く酬いるべき」と提案すると、いつも居眠りしている土居通夫が「重役は沢山の分配にあずかるべきで、私には看板料を請求する権利がある」と平然と言ったと酷評しています。



木下博民氏は、その著書「通天閣・第七代大阪商業会議所会頭土居通夫の生涯」で、小林一三は、彼の親分だった北浜銀行頭取岩下清周を失脚させた黒幕が土居通夫と思い込んでいたのではないかと書いています。



土居通夫の足跡を詳細に調べて記述した木下博民氏の同書には、土居は多くの事業や大学設立への寄付を続け、個人として法外な蓄財はしていない誠実な人生だったと結論づけていますので、土居通夫は、小林一三に相当誤解されていたようです。


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