鹿児島旅行最後の記事は、薩摩軍が全滅する前夜(明治10年9月23日)、城山であったドラマチックなある出来事を、咲くやこの花館の花と一緒に紹介しましょう。

海軍軍楽隊沿革史には 「明治維新の大忠臣であり、陸軍建設の恩人である前陸軍大将近衛都督兼参議の要職にあった西郷隆盛に対し、敬意を表し武士道の礼儀を尽くした最後の惜別の奏楽をおこなった」 とあります。

軍楽隊は 「鹿児島に回航していた軍艦から(総攻撃前夜の)戦場に招致して奏楽せしめ、官軍本営は山県有朋参軍を始め諸将兵士、之を聞いて(涙で濡れた)戎衣(軍服)の袖を絞った」 と記録されています。

演奏したのは海軍軍楽隊だったので海軍最高司令官、川村純義参軍(旧薩摩藩士)が東京から呼び寄せたのかも知れません。

かつて山県有朋は、兵部省の公金を奇兵隊時代の部下で当時(山県の推薦で)御用商人となっていた山城屋和助に密かに貸し付けていましたが、山城屋和助が相場に失敗、返済不能となり自決したことで窮地に立ったことがありました。そのとき山県の政治生命を救ったのが西郷だったのです。山県は、その恩人に向かって総攻撃を命じる立場にいたのです。

参謀本部陸軍部「征西戦記稿」には、総攻撃の前夜「夜間は特に整(静)粛を主とすべし」という命令が(山県参軍から)出ていて 「この夜、海軍軍楽隊をして楽を大明神山に奏せしめ又、煙火戯(花火)を演」 じたことが記録されています。

海軍省の「征西征討志」には、明治10年9月20日輸送船「高雄丸」が鹿児島に入港、乗員名簿の中に初代海軍軍楽隊長中村(旧姓長倉)祐庸以下、海軍軍楽隊員33名が含まれていたことが記録されています。

総攻撃の前夜、海軍軍楽隊員33名は西郷隆盛らが立て籠もる城山(岩崎谷)を望む高台(大明神山)に登り、月明かりの中で薩軍と西郷へ惜別の演奏を行ったのです。

演奏した曲名は記録されていませんが、明治10年前後に海軍軍楽隊が演奏していた曲は、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」(1867年)、ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」(1747年)、ショパン作曲ピアノソナタ第2番「葬送行進曲付」(1839年)などがあるので、そのどれか又は全部が演奏されたのでしょう。

武士道の礼儀を尽くしたオーケストラ演奏を聴いた薩摩軍の村田新八(3年間の欧米視察経験者)から、直後に返礼のアコーデオン演奏があったとも言われています。
参考文献:西郷隆盛惜別譜 横田 庄一郎著