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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1221年、承久の変で隠岐に配流と決まった後鳥羽上皇(1180~1239年)は、その直前に落飾(出家)していますが、出家者が希求する浄土に咲く花がハスの花です。歴代天皇の中で波乱万丈な人生を歩んだ後鳥羽天皇と咲くやこの花館の花蓮の紹介の3回目です。

後鳥羽上皇の怒りが解け、親鸞が赦免されたのは1211年(赦免後も越後に留まる)、法然が京都に戻れたのは1212年、その死のわずか2カ月前という厳しさでした。

さて1210年、後鳥羽上皇(31歳)は、第三皇子を順徳天皇(当時14歳)として即位させ、即位に使う三種の神器の宝剣(平家によって壇ノ浦に沈んだ三種の神器のうち宝剣だけが未発見)として伊勢神宮の神剣を取り寄せてその即位に使っています。

強引な後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立は、次第に目立つようになり、1217年には幕府寄りの西園寺公経(当時47歳)が籠居させられています。

1219年、後鳥羽上皇(40歳)は、長江・倉橋荘の地頭職解任を幕府に命じていますが、幕府が拒否、これを不満とした後鳥羽上皇は、1221年に鎌倉の執権、北条義時追討の院宣を出しています。(承久の変の勃発)

しかし、幕府軍(17万)が大挙して京都に殺到すると、上皇側はあっけなく敗北、後鳥羽上皇は、流罪となって隠岐に送られ、西国にあった上皇領三千余か所が幕府に没収され東国の御家人(地頭)がそこに入っています。

その地頭の家の子郎党を平均33名と仮定すれば、約10万人が東国から西国に移動したことになり、日本の歴史上稀にみる大移動だったようですが、詳しい資料は残っていないようです。

さて、配流された後鳥羽上皇は、隠岐でも多くの和歌を詠み、隠岐本「新古今和歌集」などを編集、配流から19年後に崩御され、隠岐で火葬されています。

後鳥羽上皇の崩御から470年後、朱子学者新井白石(1657~1725年)は、著書「読史余論」の中で「後鳥羽院、天下の君たらせ給う器にあらず。ともに徳政を語るべからず」と批判しています。

参考文献:史伝 後鳥羽院 目崎徳衛著、後鳥羽院のすべて 鈴木彰 樋口州男編



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