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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



熱帯スイレンの花の中心部は、多くのオシベが林立して前衛アートのようです。今回はそのアートと1221年に隠岐に配流された後鳥羽上皇の航海を紹介しましょう。

 鎌倉武士団に護送された後鳥羽上皇は、島根半島の東南端にある美保浦に到着、ここで風待ちして隠岐に渡ったようで、「美保浦を 月とともにや 出でぬらん 隠岐の外山(とやま)に すぐる雁がね」という御製(天皇の和歌)が残っています。

 後鳥羽上皇が美保浦から直線で約80km離れた隠岐へ渡ったのは、承久3年8月4日(太陽暦では9月1日頃)のことでした。

 ちなみに海上保安庁HPで美保浦に近い松江市のデーターを調べると、2013年9月1日の日没は18時36分、月齢4の(9月10日)の月没が21時08分とありますので、承久3年8月4日の日没、月没もほぼ同じ時刻だったのでしょう。

 島根半島の南にある美保浦からは、半島の山影に隠れて隠岐は見えません。従って出港した船が島根半島東端の岬を回り、日本海に出た直後、薄明かりの残る北側に隠岐の山が、西の空にはっきりと月が見えたということでしょう。

 月齢4の月が見えるのは、夕方から21時頃まで、従って美保浦出港は18時頃、島根半島東端の岬を回った時刻は、まだ隠岐の山が見える日没から20分後(19時過ぎ)くらいだったのではないでしょうか。

 後鳥羽上皇一行を乗せた船は、隠岐を目指して翌日の夜まで船を漕ぎ、かすかに見えた明かりを頼りに隠岐中ノ島の崎村に無事到着、そこで一泊しています。

 隠岐中ノ島崎村到着時間を20時頃とすれば、ほぼ26時間の船旅となり、船の平均時速は、3km 程度だったことが判ります。

上陸した崎村から行在所のある中里へは、陸路と海路がありますが、陸路を取ると相当険しい山道の連続となります。上皇一行には、女性も随行していたので、承久記にあるように翌日も船で移動したのではないでしょうか。・・・これはハス

中ノ島を右回りする航路を取れば、その距離は約15km、上記の船足で5時間くらいかかったと思われるので、午前中に出発すれば夕方には到着できたはずです。今から792年前の航海をちょっと考察してみました。

参考文献:史伝 後鳥羽院 目崎徳衛著



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