大正14年(1925年)、東京に対抗する意識が強かった関西財界は、関根金次郎名人よりも棋力があった坂田三吉(1870〜1946年)を名人にかつぎ、将棋名人が東西に並立する異常事態となっています。・・・演歌「王将」に出てくる通天閣の前には「大阪王将」の巨大な看板がありました。
その結果、東京の日本将棋連盟は坂田に絶縁状を送る事態となり、坂田も眼病を患っていたことから、以後16年間東京のトッププロ棋士と坂田の対戦機会が無かったといいます。・・・大阪王将のある通天閣本通前から通天閣まで歩いてみましょう。
坂田の二女(静江)の談話では、その間の坂田は家で将棋の駒をまったく手にしなかったそうです。・・・通天閣の足が見えてきました。その下に将棋の駒のようなものが小さく写っています。
昭和10年、関根名人は、実力名人制度を提唱して名人決定リーグ戦(2年間坂田抜き)がスタート、昭和12年に木村義雄(32歳、1905〜1986年)が初代実力名人となっています。・・・将棋の駒は王将でした。
昭和13年、将棋好きの菊池寛(1888〜1948年)は坂田の復帰に奔走、名人位を返上して日本将棋連盟と和解した坂田(68歳)は、30〜40代のトッププロ棋士8名が参加する第二回実力名人挑戦者決定リーグ戦に段位無で出場しています。・・・王将と通天閣です。
この時の棋譜を見た永世十段中原誠の談話は「理論的にやる将棋は、序盤からきちんとやるんですけど、坂田先生は序盤は少々悪くてもいい。その代り中盤、終盤に挽回するという将棋です」。 坂田自身も「私は序盤の作戦を知らない。序盤の損得について自信が無い。が一旦変化となれば、誰にも負けない」と語っています。・・・王将の駒の下に何か書いてあります。
リーグ戦の終わった昭和14年、満70歳直前となっていた坂田は7勝8敗で名人位挑戦者資格を獲得できませんでした。 しかし菊池寛は、文芸春秋(昭和15年8月)に「坂田が今十年若かったら、木村名人を向こうにまわして、壮快なる名人位争奪戦をやるのはきっと坂田であったろう」と書いています。・・・駒の下の石碑には「王将坂田三吉は堺市に生まれ・・・」と正確ですが、「妻小春」は「妻コユウ」の間違いでしょう。
16年間もトッププロ棋士と対戦機会が無かった70歳の高齢棋士が、20〜35歳も若い8名の棋士とリーグ戦を戦い、ほぼ互角の成績を残した事実。現在のプロ棋士の談話では、そんな人物が勝つことは信じられないそうですが、坂田三吉がいかに凄かったかという証でしょう。・・・今の大阪で王将と言えば「餃子の王将」でしょう。通天閣の下にもちゃんとありましたよ。
坂田三吉は、このリーグ戦後に将棋界から引退、昭和21年(1946年)にライバルの関根金次郎を追うようにひっそりと亡くなっています。・・・最後に通天閣
参考文献:9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝 岡本嗣郎著