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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



今回の東京観光で宿泊したホテルは、たまたま皇居に近い場所にあったので、宿泊の翌日、朝5時半頃に起きて皇居前広場を散歩してみました。ホテルの前の日比谷濠

皇居の全面積は、230ヘクタール、そのうち濠や土手、北の丸公園を含めた皇居外苑全体が115ヘクタール、その中にある皇居前広場は、大阪城公園の約半分、約46ヘクタールもあります。左は馬場先濠、その先にある日比谷通と行幸通の交差点、左が皇居、右に進めば東京駅の中央口です。

世界一の集会広場と言われる北京の天安門広場の面積は44ヘクタール、従って皇居前広場の方が広いことになりますが、ここは集会広場ではないのです。行幸通から馬場先濠方向。左の褐色の低層ビルは岸本ビル、丸の内三井ビル、その後ろの高層ビルが丸の内ブリックスクエア、その右手の高層ビルが丸の内マイプラザ(明治安田生命ビル)です。

日比谷公園(16ha)の3倍もある皇居前広場は、もともと江戸城西の丸下と呼ばれ、徳川時代には老中や若年寄、会津藩屋敷など幕府幹部の住まいがあったところです。皇居坂下門の前から東京駅方向、芝生と松以外何もない空虚な広場。

フランスの学者ロラン・バルトは、「西洋の都市には、教会や官庁などと共に広場があり、その中心が充実している」と書いています。老中安藤信正が登城時に襲撃された坂下門外の変で有名な坂下門。

一方、「東京という都市の中心(皇居とその広場)は、空虚である」と驚きを持って書いています。明治維新後には、元老院、岩倉具視邸、華族会館、近衛騎兵隊舎屋など公家と軍関係の施設がしばらく置かれていたこともあったようです。この写真に今回泊まったホテルが写っていました。

 

 

しかし、1884年に宮内卿兼宮中制度取調局長官となった伊藤博文の指示で現在のような何もない広場(当時は宮城前広場)となっています。このとき伊藤博文の真の狙いは、別なところにあり、その内容は明日の記事で紹介します。坂下門前から大手町方向は、ニューヨークのセントラルパークから見たミッドタウンのよう。

中央が丸の内マイプラザ(明治安田生命)ビル、その左に工事中のビルはJPタワー、その左手前が三菱商事ビル、その背後が丸の内ビル、その左が新丸の内ビルという三菱村のビル群です。

1923年の関東大震災の際には、ここに約30万人が収容されたと東京百年史に出ています。(46ヘクタールは46万㎡なので、一人当たり1,5㎡)この広場は、いざという時に欠かすことのできない貴重な防災スペースでもあるのです。皇居正門は、改修工事中のようでした。

1928年の昭和天皇即位の大礼では、この広場に50万人(東京朝日新聞)が集まったというので、関東大震災時以上の満杯状態だったようです。

 

つづく

 

参考文献:皇居前広場 原武史著



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