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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昭和天皇は、1933年の皇太子誕生、1938年の武漢三鎮占領、1942年のシンガポール陥落などの際、二重橋に姿を現し、広場を埋める人々を見下ろしています。皇居正門石橋。二重橋と呼ばれるのは、かなり奥にある鉄橋なので、この石橋は二重橋ではありません。

 

皇居正門石橋の西にある桜田門。大老井伊直弼が江戸城へ登城する途中、ここで暗殺された桜田門外の変は有名です。

こうして天皇が国民の前に姿を現す舞台として二重橋が使われたため、二重橋自体が天皇を象徴する神聖な場所となっています。桜田門前から皇居外苑の東方向。左のスロープの遥か先が二重橋。

 

 

終戦の際、二重橋前に多くの人々が集まったのは、二重橋が天皇を象徴するものだったからなのでしょう。皇居前広場にある楠正成像は、別子銅山開山200周年を記念して住友家が1904年に寄贈したそうです。

皇居前広場は、終戦後メーデーや占領軍のパレードなどに使われていましたが、1952年の血のメーデー事件以来、労働運動のための使用が認められなくなっています。左手前は帝国劇場、その先はDNタワー21、このビルの皇居寄り低層部分には、1945年にGHQが置かれたことで有名です。

1986年、在位60年式典の際に昭和天皇が二重橋に姿を現しましたが、それが二重橋での最後の姿となっています。かつてのGHQ(1938年に完成した旧第一生命館)、現在は背後のDNタワー21と一体の建物となっているようです。

皇居前広場は、広場という概念になじまない、何も無い空間ですが、伊勢神宮にある古殿地と呼ばれる何もない空間と似ているのです。日比谷濠まで戻ってきました。

 

フランス人のロラン・バルトは直観で、「神聖なる無を隠している」と書いていますが、皇居前広場を含めた皇居全体の本当の姿は、巨大な神社」だったのではないでしょうか。日比谷濠の西側には、最高検察庁、公安調査庁、東京高等検察庁の建物が並んでいます。

1884年に伊藤博文が密かに練ったプランは、現人神の天皇が居住する皇居を、神が鎮座する神社のようにすることだったのです

 

 

神社を信仰対象とする日本人は、皇居に鳥居や拝殿の変わりとなるものを求め、いつのまにか二重橋がそれに該当するようになったのでしょう。

 

参考文献:皇居前広場 原武史著

 



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