1806年頃の摂州大坂地図を現在の地図にかさねた歴史資料を見ると、大阪砲兵工廠の場所は大坂城定番下屋敷となっている。

江戸期における大坂城勤番のトップは大坂城代で、5~8万石の譜代大名から選任されるが、その下に定番、大番、加番という重要ポストがあった。
大坂定番は1~2万石の大名から選任され、京橋口と玉造口の固めにそれぞれ置かれたので2名いたが、任期は8~9年と長く、与力30騎、同心100人が附属し、3千俵の役料が付いたという。
大坂城内から見た京橋口

京橋口定番は京橋口内外、北ノ外曲輪から、筋鉄門、三ノ丸の要所を警衛の持場とし、城内屋敷は京橋口桝形ノ北東に、城外下屋敷は鴫野橋を渡った今の大阪ビジネスパーク附近にあつた。
新鴫野橋

玉造口定番は玉造口内外から二ノ丸東部を持場とし、城内屋敷は玉造口桝形の北、城外下屋敷は今の市民の森付近にあったという。
玉造口

1867年江戸幕府最後の大坂城代は牧野貞明(1831~1887年)、大坂定番は、京橋口が本多忠隣(1811~1874年)、玉造口が稲垣太清(1840~1888年)となっている。
追手口

牧野貞直は8万石の常陸笠間藩主、本多忠隣は1万石の播磨山崎藩主、稲垣太清(もときよ)は1.3万石の近江山上藩主である。
明治になってからの1870年、大村益次郎の構想により幕府の長崎製鉄所の機械および技術者、職工を移設して大砲を製造する造兵司が無用となった広大な大坂城定番下屋敷に置かれている。

今は堀を埋め立てられているが、開所当初は、橋で繋がった大阪城青屋口門内中仕切元番所を仮庁として事務を開始したという。
青屋門

その後、1872年、「造兵司」は「大阪大砲製造所」と改称され、1875年には「砲兵第二方面内砲兵支廠」、1879年になって「大阪砲兵工廠」と4度目の改称があったらしい。
1890年の大阪城

1890年の大阪地図を見ると、今の野球場、大阪城ホールの場所に「砲兵支廠」とあるので、4度目の改称は11年後の地図に未だ反映されていないのが面白い。
1918年の大阪城

大正中期1918年の地図を見ると大阪砲兵工廠は、1890年の砲兵支廠の場所から南に大きく拡張されているのが判る。
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