大阪砲兵工廠における1923年頃の主要製造品目は、大砲、砲弾、信管、起爆剤、鋳造品、鍛成品、鋼材、砲用薬莢、飯盒、車輛、馬具、弾薬盒、職工具類、自動車、発動機等多岐に渡っている。
大阪砲兵工廠跡地(手前から野球場、大阪城ホール、太陽の広場、記念樹の森)

これらの製品に使う部品は、下請け部品メーカーにも発注され、砲兵工廠の厳しい品質、コスト、納期の要求に応えるために当時のメーカーは必死で技術力を磨いたのである。
今も残る砲兵工廠の建物(1918年の地図には既に載っている)

戦前の日本を代表するメーカーの多くは、東洋最大の軍需企業であった大阪砲兵工廠と取引があったようなので、今の自動車メーカー等が部品メーカーを傘下において育てる手法は大阪砲兵工廠からの伝統を受け継いだものかもしれない。
砲兵工廠の石碑

大阪砲兵工廠からの厳しい品質、コスト、納期の要求に応え続けたメーカーは、終戦後平和産業に転換して大きく飛躍することになる。
1918年地図

1926年の大阪地図を見ると、鴫野陸軍用地(京橋口定番下屋敷跡)へ大阪砲兵工廠は拡張され、大阪城東側の敷地(玉造口定番下屋敷跡)にも工場が増えている。
1926年地図

敗戦直前は陸軍省が土地596万㎡、建物70万㎡、民間から土地220万㎡、建物35万㎡を借り上げ、合わせて土地700ヘクタール、建物100ヘクタールという巨大な兵器工場となっていた。
1936年地図には工場拡張のためか大阪城東外堀が埋め立てられている

天王寺区の面積が480ヘクタール、都島区が600ヘクタール、西成区が735ヘクタールというので、大阪の区に匹敵する面積を誇っていたようである。
しかし終戦前日の1945年8月14日、正午から午後4時頃まで、通算145機のB29が飛来し、合計700トン余りの爆弾を投下、砲兵工廠は壊滅、多くの死者を出している。
1972年の地図には埋め立てられた部分がラグビー場となっている

いつまでもポツダム宣言の受諾を表明しない日本に、いらついたアメリカが未だ無傷であった大阪砲兵工廠に襲い掛かったのであるが、実はポツダム宣言受諾は玉音放送の前日、8月14日には御前会議で決定していて、即座に連合国に打電されていたので、日米にすばやい情報の伝達体制があれば、空襲を取りやめることができた可能性がある。
今の大阪城公園は堀の一部が復活しているが青屋門の部分は埋め立てられたまま

戦時中6万人とも言われた砲兵工廠職人の多くは、終戦後に砲兵工廠から程近い東大阪市に移転して、砲兵工廠で磨いた技を使った町工場を開いたので、東大阪市は面積に対する工場の割合では今も全国1位となっている。
砲兵工廠の跡地にできた野球場と大阪城

大阪砲兵工廠の技術の伝統は、日本の大メーカーや東大阪市の部品メーカーに連綿と今も受け継がれているが、陸軍の巨大軍事企業であったために終戦直後に関係書類がすべて焼却されていて詳細な記録は殆ど残っていないという。
今の市民の森

現在、大阪城公園の東側にある元の大阪砲兵工廠敷地の大部分は、市民の森、記念樹の森、太陽の広場、大阪城ホール、野球場となっている。
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詳しく書いている人も居るけど、こう言う、概論はありでしょう。
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