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岩国吉川家の宗家は、吉川元春の父方の毛利家です。徳川家康は関ヶ原の直前、吉川広家(元春の二男1561~1625年)に毛利氏の中国8か国安堵という起請文を与えますが、関ヶ原の後、謀反の疑いがあったとして、毛利氏を防長2か国に減封しています。蝶の写真と一緒に毛利藩を紹介しましょう。

約束を反故にされ、中国8か国から防長2か国に減封された毛利家の徳川家に対する怨恨は深いものがありました。

毛利家では正月元旦に藩主が奥御殿に通じる渡り廊下まで来ると、上席家老が駆けつけ「殿!、今年は徳川征伐、いかがいたしましょうか?」と伺いを立てることになっていました。この話は、確か司馬遼太郎の龍馬がゆくの中でも紹介されていました。

ここで藩主は「うむ・・・まだ早かろう」と言うことになっていたとか。「廊下の式」と呼ばれるこの儀式が毛利家で幕末まで密かに続いていたのです。

しかし、毛利輝元(1553~1625年)から14代目となる毛利敬親(1819~1871年)は、第二次長州征伐に勝利した慶応3年(1867年)正月、「まだ早かろう」ではなく、「うむ・・・考えておく」と言ったそうです。

ところで1610年の検地によれば、防長2か国の総石高は53万9280石、毛利家では家康の腹心だった本多正信(1538~1616年)にこれを相談したようです。

本多正信は、「隣の安芸・備後2か国を受けた広島藩(福島正則1561~1624年)と調整した上で」と言い、福島家からの報告49万8000石を受けて、毛利家の石高を36万9411石と決定しています。

老獪な本多正信は、関ヶ原で大功のあった福島正則よりも毛利氏の石高を低くしておいた方が幕府幹部や正則を刺激せずに済み、かつ毛利家にも恩を売れると考えたのでしょう。

1625年にあった検地では、防長2か国の総石高はさらに増え、65万8299石、1687年には81万石、幕末には100万石を越えていたようですが、幕府に対する所役の負担基準となる総石高は36万9411石から増えていません。毛利家は密かに巨万の富を蓄えていたようです。

関ヶ原から288年後の1868年、この富を使った毛利家は、歴代藩主悲願の徳川征伐(明治維新)を断行、明治17年に藩主は公爵となり山口県出身者は長州閥として政界や陸軍を牛耳ることになるのです。

参考文献:岩国藩 成田勝美著



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