昨日の山階候爵に続き、昭和18年12月54歳で召集された貴族院議員大山柏公爵(退役陸軍少佐)のことを紹介しましょう。山階侯爵の山階鳥類研究所に敬意を表して野鳥(ミサゴ)の写真も合わせて紹介します。
明治半ばになっても(公・侯・伯・子・男の)爵位を持つ華族の中から訓練が厳しい軍人になる者は少数でした。既に華族となっていた軍閥の大物たちは、「皇室の藩屏」である華族が命を国家に捧げる職業につかないのでは国民に対して具合が悪いと考えたようです。
そこで軍人の子弟は、軍人となる可能性が高いであろうとして、軍の幹部にどんどん爵位を与え、将来に渡って華族の中に軍人が一定の割合を占めること(軍人華族の再生産)を狙う方針を立てています。
日露戦争での満州軍総司令官だった大山巌(1842〜1916年)侯爵は、戦後爵位最高の公爵となり、バルチック艦隊を破った東郷平八郎(1848〜1934年)は、いきなり上から3番目の伯爵(後に侯爵)となっています。
それまで爵位最高位の武家公爵は徳川旧将軍家、島津家、毛利家当主、爵位第二位の侯爵が徳川御三家や加賀百万石前田家ということで、薩摩の下級武士が大出世したのです。
大山巌公爵の次男で後に家督を継いだ大山柏(1889〜1969年、母親は山川捨松)は、父親と同じコースを辿ることを期待され、陸軍幼年学校から陸軍士官学校(22期卒業、牟田口廉也と同期)に進みますが、在学中から考古学に興味を示し、陸軍少佐になった昭和3年(1928年)に慶応大学講師に転職して考古学者となっています。
ところが太平洋戦争中の昭和18年12月、大山柏公爵(貴族院議員)は突然召集され、第七師団(北海道旭川)配下の大隊長として根室付近で本土決戦に備えた防衛任務についています。
日露戦争の英雄大山元帥の息子(妻は元首相、公爵近衛文麿の妹)も本土決戦に立ち上がったと、陸軍が戦意高揚に利用したかったのでしょうが、既に54歳となっていた本人には迷惑だったと思います。
また配属された第七師団長の鯉登(こいと)中将(1891〜1972年)は、陸軍士官学校の2年後輩、皇室儀制令(大正15年)で公爵は中将(高等官一等、但し師団長を除く)少将(高等官二等)よりも上位席次とされていた関係もあって、大山少佐より上位の階級にいた幹部もやりにくかったと思います。
参考文献:華族たちの近代 浅見 雅男著 北のまもり 大隊長陣中日誌 大山 柏著