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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



維新直後、鹿児島の学者と鹿児島出身の政治家は、天孫降臨から神武天皇までの4代が支配し、生活していた土地は、古事記、日本書紀の記述から鹿児島県だったと断定しています。・・・吾平山上陵の中を流れる肝属川

 

天照大神の命により、高天原から地上に降りた(天孫降臨した)のは、彦火瓊々杵尊(ニニギノミコト)で、日本書紀によればその地は「日向襲之高千穗峯」又は「筑紫日向高千穗」です。・・・吾平山上陵にある昭和天皇行幸記念碑

鹿児島県と宮崎県は、かつて日向国(薩摩大隅国が分かれたのは西暦713年)と呼ばれ、ニニギノミコトは日向(鹿児島県宮崎県の県境付近)の高千穂峰から現在の鹿児島県北部に進出したと維新直後の鹿児島系学者は考えていました。・・・肝属川

ニニギノミコトの子は、彦火火出見尊(ホオリノミコト、山幸彦)で、鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)に祀られ、1874年(明治7年)に鹿児島県霧島市にある「高屋山上陵」が埋葬地と治定されています。・・・肝属川に架かる石橋

山幸彦の子が天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)以上三代を日向三代と呼んでいます。ウガヤフキアエズノミコトは日向で玉依姫と結婚し、五瀬命、稲飯命、御毛沼命、若御毛沼命(後の神武天皇)の四子をもうけています。・・・御陵への参道

後に神武天皇となる若御毛沼命は、15歳のときに皇太子となり、吾平津(あひらつ)姫を妃としますが、大隅半島中部に吾平(あひら)という地名があるので、その地方にいた姫だったのでしょう。・・・洞窟の中にある御陵

ウガヤフキアエズノミコトの埋葬地は、日本書紀に「吾平山上陵」と記載があり、明治7年、明治政府は大隅半島の旧 肝属郡吾平町にある埋葬地を「吾平山上陵」に治定、現在も宮内庁が管理しています。・・・吾平山上陵にある宮内庁の表示、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)とあります。

さて、神武天皇(古事記では神日本磐余彦尊)は、兄の五瀬命と相談して葦原中国(日本)を治めるために東へ行くことを決定、吾平山上陵から12km北東にある柏原海岸から出発したと鹿児島の学者は考えたようです。

こうして明治初期の日本では、本土最南端の大隅国が皇室発祥の地となっていたのです。・・・・志布志石油備蓄基地近く東串良漁港の丘にある戸柱神社。

戸柱神社の拝殿前に「神武天皇御発航伝説地」(1940年建立)の石碑が今も荒れたまま残っていました。



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