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壬生寺のある壬生の地名は、東側にある壬生大路(壬生通)が、大内裏の美福門(みぶもん=壬生門)に通じていたので起こったものと考えられている。

壬生寺表門



この壬生寺は、園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年に大内裏の裏鬼門となる地に地蔵菩薩を安置、建立したとされる律宗(総本山唐招提寺)寺院である。

壬生延命地蔵尊とある南門



中世には、円覚上人(1223~1311年)が中興し、重要無形文化財となっている「大念仏狂言」は当時流行していた疫病鎮静を祈って始めたものと伝えられる。

鎌倉時代のものとされる快賢の五輪塔



壬生寺には、京都の治安維持を目的に活動した新選組の本拠が隣の八木家(壬生寺が菩提寺)に置かれた縁で局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある。

壬生塚



当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年、放火により本堂とともに焼失、現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたもの。

今の本堂



壬生寺境内にある池の中の島は、壬生塚と呼ばれ、阿弥陀堂の先にある橋を渡って中を拝観することができる。

本堂前から見た表門と壬生塚(左)



橋を渡った右手正面には、近藤勇の胸像があり、その横に遺髪塔、暗殺された芹沢鴨と平山五郎、勘定方河合耆三郎、隊士7名の墓がある。



隊士7名の合祀墓には、池田屋騒動(1864年6月)で亡くなった奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門が葬られているが、池田屋騒動で新選組の名前が一挙に有名になり、同年年末の隊員数は67名となっている。

隊士7名の合祀墓



隊員の増加した新選組は翌年春に西本願寺に屯所を移転、そこで大砲など洋式兵法の訓練をはじめているが、西本願寺の門主からの苦情で、壬生寺を訓練場として使ったという。

芹沢と平山の墓



1864年7月隊員数は、134名と急激に増えているので、玉石混交した隊員の訓練は欠かせなかったものと思う。

表門



しかし大砲の射撃で寺の屋根瓦が破損したために、壬生寺も西本願寺の新選組屯所へ再三苦情を訴えていたという。


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