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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



拝観券売り場からまっすぐ続く石畳の突き当たりを右に曲がると霊宝殿である。




石畳の左の階段を上がり霊宝殿に入ると、残念ながら撮影禁止と書いてある。



広隆寺に2体ある国宝の弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像が霊宝殿の中央に安置されていた。



像高は約123センチ、 アカマツ 材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す有名な弥勒像である。

制作時期は7世紀とされ、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像とみられているが、日本での制作とする説もあるらしい。

以前、学生が触って像の指を破損した事件があって、かなり遠くに安置されていたのが残念であった。



弥勒菩薩半跏像の両側には12神将像をはじめとする28体の重要文化財がずらっと並び壮観である。

弥勒菩薩像の向かい側には高さ3m近い国宝の木造千手観音立像、木造不空羂索観音立像があり、これらの像は珍しいことに後ろ側からも見ることができる。

境内



838年成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』によれば、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために帰化人の秦河勝によって建立されたとある。

秦河勝を祀る太秦殿



たしかにこの辺りの地名は太秦というくらいで、昔から秦氏の支配地域であったようであるが、広隆寺が当初からこの地にあったかどうかは定かではないようである。



その後、818年の火災をはじめ、たびたび災害に見まわれており、創建当時の建物は現存していない。

836年に広隆寺別当(住職)に就任した道昌( 空海 の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、中興の祖とされている。

1150年にも火災で全焼したが、比較的短期間で復興し、1165年に諸堂の落慶供養が行われている。



このときに再建された講堂が今も残っているのである。



幾多の火災にもかかわらず、霊宝殿には6体の国宝仏像と28対の重文仏像があるのにはビックリさせられる。

新霊宝殿を出ると京都らしく杉苔で覆われた庭がある。



庭の古木の緑は美しく、池には蓮の葉が顔を出していたが、花はこれからであろう。




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