きのうはカレシと寝酒をやりながら、フォークが流行った頃の日本と北米の政治的、社
会的状況について話し込んでしまった。日本で「フォーク歌手」と言えるのはやっぱり岡
林信康だけだと思う。ピートシーガーやボブディランのような存在かもしれない。他とは
ひと色もふた色も違った作品で、よく放送禁止を食らった。ワタシには誰よりも一番感じ
るところがあったフォーク歌手だった。
カレシが興味を示したので、朝食後にYouTubeを探して見つけた『くそくらえ節』を聞
かせた。これは発禁になった作品で、きのうカレシが聞いていたチャドミッチェルトリオ
の歌に通じるものがないとは言えないな。映像はないけど、ライブらしく、リフレインを聴
衆に歌わせていて楽しい。彼の「母語」である関西弁と交えての痛烈な風刺は言葉が
分からないカレシにもフィーリングで伝わるらしく、しきりに「アメリカでも通用したと思う
けどなあ」。
それにしても、YouTubeって便利だな。ワタシもはまってしまいそう。山谷の日雇い労
働者を歌った『山谷ブルース』、差別を歌った『チューリップのアップリケ』と『手紙』、
自作ではないけど貧しい農家の出稼ぎを歌った『お父帰れや』・・・久しぶりにじっくりと
聞いて感動。女性の視点から語られるものが多いからかな、煽るでも、憤るでもなく、
感情に溺れずに、淡々と歌われているところにパワーがある。
左に失望してノンポリに転じたワタシが、岡林信康に「何か」を感じたのは、彼が牧師の
息子に生まれて神学部まで行ったことと無関係ではなさそう。信仰を離れたとしても、
考え方のどこかにキリスト教思想が根付いていると思うから、キリスト教に近いワタシ
は彼の歌にぴんと来るものを感じるんだろうな。だから、『友よ』の中の「たたかいの炎
を燃やせ」は決して暴力による革命を示唆したり、(当時の)学生運動を鼓舞するもの
ではなく、少なくともワタシには「精神的(spiritual)」なたたかいの炎を燃やせと言って
いるように聞こえる。それにしても、よく通る声・・・。
会的状況について話し込んでしまった。日本で「フォーク歌手」と言えるのはやっぱり岡
林信康だけだと思う。ピートシーガーやボブディランのような存在かもしれない。他とは
ひと色もふた色も違った作品で、よく放送禁止を食らった。ワタシには誰よりも一番感じ
るところがあったフォーク歌手だった。
カレシが興味を示したので、朝食後にYouTubeを探して見つけた『くそくらえ節』を聞
かせた。これは発禁になった作品で、きのうカレシが聞いていたチャドミッチェルトリオ
の歌に通じるものがないとは言えないな。映像はないけど、ライブらしく、リフレインを聴
衆に歌わせていて楽しい。彼の「母語」である関西弁と交えての痛烈な風刺は言葉が
分からないカレシにもフィーリングで伝わるらしく、しきりに「アメリカでも通用したと思う
けどなあ」。
それにしても、YouTubeって便利だな。ワタシもはまってしまいそう。山谷の日雇い労
働者を歌った『山谷ブルース』、差別を歌った『チューリップのアップリケ』と『手紙』、
自作ではないけど貧しい農家の出稼ぎを歌った『お父帰れや』・・・久しぶりにじっくりと
聞いて感動。女性の視点から語られるものが多いからかな、煽るでも、憤るでもなく、
感情に溺れずに、淡々と歌われているところにパワーがある。
左に失望してノンポリに転じたワタシが、岡林信康に「何か」を感じたのは、彼が牧師の
息子に生まれて神学部まで行ったことと無関係ではなさそう。信仰を離れたとしても、
考え方のどこかにキリスト教思想が根付いていると思うから、キリスト教に近いワタシ
は彼の歌にぴんと来るものを感じるんだろうな。だから、『友よ』の中の「たたかいの炎
を燃やせ」は決して暴力による革命を示唆したり、(当時の)学生運動を鼓舞するもの
ではなく、少なくともワタシには「精神的(spiritual)」なたたかいの炎を燃やせと言って
いるように聞こえる。それにしても、よく通る声・・・。