尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「地図と領土」ーウエルベックを読む①

2019年04月12日 20時49分42秒 | 〃 (外国文学)
 パソコン入れ替え頃から、ずっとフランスの作家ミシェル・ウエルベック(1958.2.26~)を読んでいる。ミシェル・ウエルベックは、Michel Houellebecq と表記する。僕は長いこと「ウェルベック」だと思い込んでいた。ウェルベック( Welbeck )という名前も存在し、ダニー・ウェルベックというイングランドのサッカー選手が検索に出てくる。だけど、よく見てみれば「エ」の字が大きい。フランス語は H を読まないから、ウエルベックと発音するしかない。架空の名前ではなく、祖母の旧姓だという話。
(ミシェル・ウエルベック)
 ウエルベックは間違いなく世界でもっとも読まれている現役作家の一人である。でも絶対にノーベル文学賞は受賞できないだろう。今まで物議を醸しすぎる作品ばかり発表してきた。世界的に評判を呼んだ「素粒子」(1998)をちくま文庫で読んだだけだが、非常に面白かった。2010年に発表された「地図と領土」がゴンクール賞を受賞し、2013年に日本語訳(野崎歓訳)が出た。書評が面白そうだったので買ったけど、そのままになっていた。読み始めてから、ここしばらくウエルベックのとんでもない世界に浸っている。すべての人が読む本じゃないと思うけど、ぜひ記録しておきたい。
(地図と領土=今はちくま文庫)
 ウエルベックの作品は主人公の一人称で語られ、世界に関して考察する。じゃあ、論説やエッセイでいいじゃないかというと、確かにそういうものも書いている。でもウエルベックの出発点は詩人で、長々しい考察の果てに詩人的な世界観が現れてくる。非常に独特な世界で、大体名前も小説っぽくない。「素粒子」は実際に物理学の棚に並べられたらしいが、「地図と領土」も地理学かなんかの本かと思う。そして、この小説は今まで読んだ中で一番変な本、少なくともその一つだ。

 小説は何でも表現できる。人間は空を飛べないが、小説家が「彼は空を飛べる」と書けば、その小説内では空を飛べる。絵も空を飛ぶ人間を描けるから、そのような「不可能なこと」「人間世界の物理的法則に反する世界」を描く小説、あるいは絵画、アニメーション映画がたくさんある。でも、物理法則に反していても、登場人物が恋をしたり友情を育むといった「人間心理」は同じである。だから小説でもアニメでも我々は「魔女の宅急便」に共感できる。人間世界の物語だから。

 しかしウエルベックの世界は、そこを突き抜けている。「ある島の可能性」は実際に人類文明のその後を描いている。ウエルベックの世界では、現代ヨーロッパが行き着くところまで行き着いて、もう滅びるしかないような孤独な世界が広がっている。セックスは存在しているが、およそまともな意味での家庭生活を営んでいる主人公がいない。「地図と領土」の主人公、アーティストのジェド・マルタンも同様だ。一時は熱烈な恋人オルガが登場するが、結局うまくいかない。大体ジェド・マルタンは1976年に生まれて、2046年に70歳で没する。同時代を突き抜けて、近未来まで描かれるという不思議な小説。

 それ以上に変なのは、小説内にウエルベック自身が登場することだ。たまたま同姓同名なのではなく、あの「素粒子」の作者、あの「プラットフォーム」の世界的作家と自分で書いてるから、作者本人に違いない。マルタンは画家として個展を開くことになり、カタログにミシェル・ウエルベックに解説文を書いてもらおうと思いつく。孤独な人嫌いとして知られているウエルベックになんとか接触して、実際に会いに行く。自分を孤独な変人として描いていて、二人は芸術に関する会話を交わす。その結果、マルタンはウエルベックの肖像画まで描くに至る。その後、この小説はさらにとんでもない逸脱を続けてゆくが、そこは触れることが出来ない。とにかく、こんな小説あり得ないと思うだろう。

 この小説のテーマは「現代においてアートとは何か」である。一貫して「変わりゆく世界」(情報社会グローバル化などと言われる変化)に徹底して反対してきたウエルベックは、この小説でも風刺というか、皮肉というか、ほとんど悪意のように、現代アート論議が語られる。ジェド・マルタンは写真に興味を持っていて、「ミシュランの地図を写真に撮る」という趣向で大評判になる。展覧会でミシュランの広報担当のオルガと知り合う。その後写真をやめ、架空の肖像画を描き始める。それが「ビル・ゲイツとスティーヴ・ジョブズ、情報科学の将来を語り合う」といった絵で、これがマルタンの最高傑作と言われるようになるらしい。そして大成功を納めるも、また絵を放棄して孤独な人生を送るが…。

 この本には実在人物、特にフランスのテレビ界の人気者がいっぱい出てくる。注があっても完全にはよく判らない。でもそこが面白い。フランス語のウィキペディアからの引用も多い。主人公がそうやって調べてるんだから仕方ないけど、一時は盗作じゃないかともめたらしい。でも他の作品が民族、宗教、性などをめぐる大問題を引き起こしたのに比べるとたいしたことない。だからかどうか、候補4回目にして、フランスで最も有名なゴンクール賞を受賞した。とにかく変というか、風刺が行き着くところまで行き着いた自虐の果てのような小説なので、現代小説にあまり詳しくない人は困惑すると思う.でも、この小説は現代に書かれた最も優れた小説の一つだと間違いなく言える。
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