尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「プラットフォーム」ーウエルベックを読む③

2019年04月16日 22時50分42秒 | 〃 (外国文学)
 ミシェル・ウエルベックの「プラットフォーム」(2001)は、書く小説すべてが問題作のウエルベックといえど、一番の超問題作だろう。この小説は2001年の8月下旬に刊行され、すぐ後にアメリカの同時多発テロが起こった。詳しく書けないが、小説内容が刺激的かつ「予見的」で、スキャンダルと言える騒ぎとなった。その問題はさておいても、作品内容が「売春観光」、特にタイ南部のリゾートにおけるセックス、さらに現代人の性とはどういうものかヨーロッパ人の文明はどこに行くといったテーマが縦横に語られる。刺激的でスキャンダラスで、こんなに面白い物語が現代にあるのかと思うぐらい面白いけど、ここまでセックス絡みだと人に勧めにくい。そんなレベルに達した問題作。
 (河出文庫)
 内容は確かに「問題作」で、ずいぶんいろんなことを考えさせられるけど、どうも僕には完全には認めがたい。主人公の「」は人生に熱くなれずに虚無的に生きている。「僕」は文化省で現代アートの展覧会の予算担当という、有意義と思える定職がある。「見た目」も問題ないし、お金も不自由しない。問題ないじゃないかと傍からは思うけど、ウエルベック本人がそうであるように家庭的には恵まれない。両親は別々に暮らし、その疎遠な父親は冒頭で殺害される。その事件はエピソード的には小さなものなんだけど、ある意味フランスが変わりつつあることの象徴でもある。人生の意味に悩む「僕」は父の死をきっかけに休暇を勧められ、タイのリゾート旅行に申し込む。

 そのタイ旅行がかなり長く語られる。旅番組はテレビでいつもやってて、他人が食べたり名所めぐりをしてるのを見るだけなんだけど、結構面白い。国内なら一人でぶらっと行けるけど、外国へ行くなら旅行会社の団体プランに参加することは日本でも多いだろう。そういう旅行を事細かに報告するというのは、文学上の発明だ。旅の解放感の中、名所を解説しながら、見ず知らずの同行者はどういう人かを観察する。主人公は誰かと親しくなるのかという「ミステリー」で読者を引っ張ってゆくことも出来る。「僕」は継続した女性関係が苦手で、気になる女性もいたけど声を掛けず、タイの娼婦を相手に性関係を結ぶ。セックスや現代文明への論評があけすけに語られてゆく。

 もうこの辺でアウトだという読者も出てくるだろうし、こっちもいささか飽きてくるが、第2章になると「怒濤の展開」が待っている。旅行中に気になっていたヴァレリーに最後の最後に連絡先を聞いてパリで再会する。そして結ばれるんだけど、実は彼女は「業界人」だった。つまり旅行業界内部の人で、このようなヴァカンス旅行の企画が仕事だった。完全な個人旅行ではあるが、社内割引で参加して「視察」も兼ねていた。そして業績を大きく伸ばして、上司とともに別会社から声が掛かっていた。不振のキューバ旅行の実情調査に二人で出かけたりもする。そこで「社会主義」の実情が観察される。

 あんまり書くと面白くないが、ここで「現代人におけるセックス事情」が興味深く語られてゆく。そして浮上するのが、「イスラム問題」だ。フランスだから地中海の向こう側はイスラム教地帯である。モロッコやチュニジアはフランス人に人気の観光地だし、エジプトも大観光地。だけどエジプトのリゾート施設が不人気だという。知人だというエジプト人を通してイスラム批判が語られる。「セックス観光」を仕掛けるのが仕事なんだから、公然たる歓楽を禁じ、体の露出もままならないイスラム地域は不自由である。この問題はラスト近くで悲劇につながるが、随所で示唆されているから驚くことはない。

 ここで語られるのは「物語」であって、著者の意見や実体験ではない。観光記という体裁の記述が多く、観光はとにかく動きがあるから一気に読める。その反面「著者の体験」視されやすい。この本で「僕」は相対化されていて、僕=ウエルベックではない。だけど「僕」や多くのヨーロッパ男性がアジア女性に抱く「幻想」が完全に相対化されているかどうか。

 「僕」や多くの日本人を含む「先進国」では、国際的な経済関係の現状から、東南アジアの国々に行けば「金持ち」として振るまえる。本国では満たされない欲望も金の力で実現できる。本人が本国で特に能力を発揮してなくても、親以前の世代の経済力で今の世代も恵まれている。だから異性愛の中高年男性だけでなく、女性や同性愛者であってもアジアのリゾート地で「おいしい体験」をする人はいるだろう。それを道徳的に批判するだけでは世の中は変わらない。だが金の力で「仕事」をしている「労働力」を買っても楽しいだろうか。セックスには言語はいらないと言うかもしれないが、継続的な関係を結ぶには言語的な共感抜きでは不可能ではないのか。

 セックス論議やイスラム教批判だけならまだしも、アジア幻想の「オリエンタリズム」臭には疑問を持ってしまう。ただし、そこを含めても「面白い物語」であって「問題作」を書いたという著者の才能は疑えない。至る所で「ホンネ」の議論を「僕」はやっている。だからこそ、ウエルベックの虚無の深さも感じることが出来る。何を書いてもいい小説というジャンルだが、こういう話が存在したのか。この本こそ女性が読んで批評するべき本だ。読めば反発する人が多いだろうが、考える材料になる。
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