ビビッド能里子トーク・サロン

心身両面の指導者として感じたこと

インドに瞑想を求めて 終わり

2010年05月31日 | Weblog
   ☆ まるで変わった生活パターン
 元気になってからは、毎朝アシュラムと同じ時間に起きて、必ず瞑想を行う
習慣になりました。ダンスのパーティや、その他の夜のお付き合いもできるだけ
避け、ひたすら早寝早起きを習慣にするよう努力したのです。
 夜遊びが好きだったわたしのあまりの変わりように、友人達は大変驚いたようで
した。ダンス教師だったわたしがヨーガを始めた時「あなたがヨーガなんて似合わ
ないし長続きするわけはない」と、言っていた友人達も、改めてわたしの大変身を
見直してくれたようです。思い出せば、ヨーガの精神性に魅かれ、出合った途端に
「これはわたしの一生の仕事にしよう」と、毎日努力した結果が、現在のわたし
でが、人生は本当に不思議なものだと、改めて感じました。

 昔の文章を読みながら、記憶を  蘇らせて書きました。
リシケシへはそれから何度か行きましたが、一昨年「ヨガニケタン・アシュラム」
に滞在しましたが、宿舎は山の下のガンジス河のほとりに移り、アシュラムの
雰囲気も、指導法も、以前とはまったく違いました。
 時の流れとともに、わたしの心の故郷だった聖地リシケシも、大きく変化している
ことを痛感しました。多分12・3回通ったインドでした。
 もう大分以前からデリーのアシュラムにいらっしゃるわたしの先生に、どうしても
言葉には出せませんでしたが、心の中でさようならを言いました。
 でもわたしが修行したヨーガは、心身にしっかり刻みこまれ、現在でも生活は「かなり
ヨーガ的」で、これは生きている限り変わる事はないでしょう。 

Vishwa Priya (大いなる愛)1985年 ヨガ二ケタン アシュラム寄り授与されました。
長い間お読み下さって有難うございました。   小池能里子



インドに瞑想を求めて 7

2010年05月30日 | Weblog
  ☆ 瞑想状態を体感して 
 わたしはヨーガを初めて11年経ちましたが、一時間微動だにしない行法は
ハッキリ言って大変でしたが、でもそうしなければ瞑想状態を得ることはできない
と感じました。はじめは足ばかり気になりましたが、朝晩座っているので、だんだん
慣れてきました。確か三日目の朝でしたが、これはわたしが求めていた瞑想状態では
感じられる体験をしました。
上手に表現できませんが、それは肉体感覚がまったくなく、意識は冴えわたって
心の中がシーンとして、まさしく「無」と言えるような感覚でした。
オーバーに表現すると、「時空を超えた宇宙との一体感のようなもの」だった
のです。

 あっという間に一時間が過ぎ、先生の瞑想の最後を告げる「オーム」と言う声で
「え!もうそんなに時間が過ぎたのだ」と、大変驚きました。
なぜなら時間の経過がまったく分からなかったからです。
「この精神状態こそ瞑想だ!」と気がつき、感動し、気がついたら涙が頬を伝って
いました。あの日のことは、決して一生忘れることはできないでしょう。
 「わたしは聖地のリシケシまで来て、求めていた瞑想状態が得られた」と
嬉しくて、嬉しくて舞い上がりたいような気持でした。
清らかな空気の中で、スッカリ明るくなった早朝のガンジス河や、真っ青な空や、山を
見ながらベンチで一人しばらく座りました。
 まるで、わたしの心の中に、清々しい風が吹き抜けているような、とても爽やかな
気分で「このアシュラムに入った途端にそんな予感がしたが、ヤッパリわたしは導かれ
ていたのだ」と、込上げてくる喜びと、感動とが、織りなす幸福感に浸りました。

インドに瞑想を求めて 6

2010年05月29日 | Weblog
  ☆思いがけなくマントラをいただいて
 ある日先生が「こちらにいらっしゃい」とわたし達を呼びに来て、三階に
上がると、そこにはアシュラムで最も偉い「スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ」
がコウモリ傘をさして(昼間は日差しが強い)椅子に座っていました。
 96歳というご高齢のため、最近はアシュラムでは指導はしていらっしゃらず
長逗留している人達も、全くお会いしたことがないことを、後で聞きましたが
わたし達は大変羨ましがられました。
 そこで先生は「日本から来たこと」などの他に、ここまで来た経緯を、マハラジ
に詳しく説明をしていたらしく、ニコニコしながら、「今日は特別に三人にマントラ
を上げよう」と、マハラジがおっしゃったので、わたし達は大変びっくりしました。
 それから、一人一人を祝福して下さって、マントラを与えて下さったのです。
わたし達のように数日の滞在で、アシュラム最高のスワミから、マントラ(わたし
は幸せになるための言葉と捉えています)を直接いただけるなんて、何とラッキー
でしょう。わたし達はそれぞれにいただいた、世界で唯一つのマントラに、大変
感謝しました。そのマントラは、わたしの一生の宝ものになりました。
それ以来毎朝、一日も欠かさず唱えていますが、その時の写真は今も大切に
とってあります。
 後から聞きましたが、私達が帰国してから、間もなくマハラジはお亡くなりに
なったそうですが、もしかしたら、「マントラ」をいただいたのは、わたし達が
最後だったのかもしれません。
  ☆リシケシの街を歩いて
昼食がないため、三人で馬車に乗ったり、三輪タクシーに乗ったり、時には
歩いたりして(3・40分)リシケシの街へ食事に出かけました。
 リシケシの街はとても賑やかですが、聖地のためにか肉、魚などの動物食品は
なく、またアルコールもないそうです。
 また街に出ても、(二人とも30代、Tさんは愛らしく、Yさんはかなり美人)の
ためか、日本人が珍しいためか、どこに行っても見られ、ときには何人かの男性が
ついてきて、本当に困りました。
 人一倍神経質なわたしが、いつの間にか信じられないほど何も気にならなくなり
インドのお菓子を買って食べたり、時には道端で絞って売っているオレンジ
ジュースを飲んだり、色々なお店で食べたりしました。
食事の後は、お土産物屋さんをひやかしたり、街を見物したりしましたが、郵便局も
あったので、すぐに家族に手紙を書いて投函しましたが、わたしが帰国してからも
その手紙はとうとう届きませんでした。

頭の中でダンスを踊っている!

2010年05月28日 | Weblog
  ☆インドちょっとお休みさせて
 今「インドに瞑想を求めて」を書いているが、もうすぐ終わるけど、書き手
としては、申し訳ないけど少々飽きちゃうのだ。
 その点ブログは自由に書けるから、いいでしょ!
大昔のことより、ジャストナウのわたしの気持ちを、皆さんにお伝えしたい!
わたしは今ラインダンスの振り付けをしている。
 それは今年入学した、世田谷区立の生涯大学の学園祭のために、我がクラス
メート達が踊るためだ。今回のクラスはおよそ男女が半々で、先日授業が始
まったがなかなか楽しそうだ。学園祭は一年一回、その学生たちが色々なものを
発表するが、わたしは以前のR大でもラインダンスを指導したが、それは大変楽し
かった。ところが、もう一度ラインダンスを踊り、作詞した「第二の青春」を
30人のクラスメートで歌うことになった。
 
 実はラインダンスは、ホンネではもう一度踊りたかった。
何故なら、ワイワイガヤガヤと練習したあの楽しさが、実は忘れないからだし
以前のクラスメート達に、たきつけられたことも原因の一つだけれど。
 でも思いがけなく歌まで歌うことになり、とても楽しいけれど、実は責任重大
だ。先日から音楽を聞いて、小節数を数え振付を考えているが、高齢者ができる
足だけで踊るラインダンスは、なかなか難しい。
 わたしの頭の中には、いつも音楽が流れていて、頭でダンスを踊っている。
大変だけど、やっぱりスゴーク楽しい。だからわたしはヤッパリ第二の青春している。

インドに瞑想を求めて 5

2010年05月27日 | Weblog
   ☆ アシュラムでの生活 
 アシュラムは朝夕の食事は、シバナンダアシュラムの厳しい雰囲気とは違って
日当たりの良い縁側のようなところで、お喋りしながら、和やかなムードでした。
 わたし達が箸を使うと、みんなが笑いましたが、外国人もフォークやスプーンを
使用していました。彼女達は英会話が堪能でしたし、わたしも簡単な言葉は理解
できたので、会話は楽しく弾みました。
 また。お水が大好きなわたしですが、その頃はミネラルウオーターなどなく、山の上
にあるアシュラムの水道の水を、毎日抵抗感なく飲んでいましたが、とても体調がよく
まったくお腹はこわしさなかったのは、体が順応していたのでしょう。
 
 わたし達が滞在したコテージは、10畳ほどの広さにベッドが二つ、エキストラベッド
を入れてくれましたが、隣の部屋には水洗トイレとシャワーがありました。
 平屋の建物の屋上にはタンクがあり、そこから水が出るらしいのですが、タンクが空に
なると水が出なくなるので、トイレもゆずり合って使いました。
 でも髪を洗うゆとりはなく、外の水道で洗いましたが、昼間は暖かいので、それほど
苦にはなりませんでした。二人は独身でしたが、わたし達はとても波長が合って
ゼネレーションのギャプがなく、いつも会話が弾みました。

 また、なぜかアシュラムのスタッフからも特別待遇を受け、、毎日のように
朝食に招待されたり、また、男性の先生がかなり遠い美術館?へ連れて行って
くれたりしました。そのときにも4人で歩いていると、よほど目立ったのか、人が
立ち止まって無遠慮な視線を向けられ、どこに行っても色々な人達に見つめられ
三人でお互いに「わたし達は美人グループだからよね」と、言っては、笑い転げました。
 わたし達をアシュラムに紹介してくれた日本人の女性とは、一度すれ違っただけ
で修行の場では、一度も会うことはありませんでした。
 
わたしの記憶では、確か日本円で1500円位、約二週間宿泊できると聞いて
いたので、もしかしたら、ホテル代わりに宿泊していたのかもしれません。
 ドイツ人の男性が、見晴らしの良いベンチでギターを弾いて、白人男性達ばかりで
歌っていましたが、わたし達も誘われて何度か参加しました。
 日本の歌も弾いてくれ、それはとても楽しかったです。
会話の中から「わたし達は一週間だけ宿泊する」と話すと、「え!そんなに短いの
信じられない」と言われましたが、大体の人は少なくとも、2・3カ月は滞在するのが
ふつうのようでした。(どんな仕事をしているのだろう?)と、わたしは不思議でなり
ませんでした。またニュージーランドの男性が、「ユアヴォイス・ベリービューティフル」
と褒めてくれたのは今でも忘れませんが、毎日のどかで楽しい日でした。


インドに瞑想を求めて 4

2010年05月26日 | Weblog
  ☆アシュラムでの修行
 ヨガニケタンアシュラムでは、わたしがもっとも望んだ瞑想の講座があり、それは
朝5時と夕方6時の二回もあり、本当に嬉しかったです。
 朝は五時少し前に鐘の音を合図に、それぞれの宿舎から人が集まってきますが
とても寒いために、ほとんどの人が体に毛布を被って参加しました。
 その時は白人男性ばかりで、アジア人は一人もいませんでした。
初めて参加した時には、瞑想が始まる前に、メデテーションホールの前でグルーから
「ジャパニーズレデイス、咳が出ても、くしゃみが出ても、足がしびれてじっとして
いられなくなっても、すぐに退場するように」と、厳しく注意されました。
 実際に途中から静かに出て行く人も、何人かいましたが、お腹が鳴っても、足を少し
ずらしても聞こえるほどの静けさでした。
 でも決してはりつめたような緊張した雰囲気ではありませんでした。
対岸からはときどき幻想的なコーランが聞こえたり、ジーンと虫の鳴くような
音が聞こえたりしました。メデテ-ションルームは、瞑想を指導する先生の傍に
ほの暗い灯りが一つあるだけで、神秘的でありながらも、なぜか暖かいヴァイブ
レーションを感じました。わたしがそう感じたのは、きっと、わたしの一生の師に
なった先生がご指導なさっていたのも、理由の一つからかも知れません。
  ☆ヨーガクラスはわたしの指導法とそっくりだった
 瞑想が終わってからすぐに、ヨーガのアーサナがありますが、ポーズは
すべてサンスクリット語でしたが、わたしは日本ではインド人の先生から学んだ
ので全部分かりましたし、後は英語でしたが、指導はすべて理解できました。
 シバナンダアシュラムの厳しいアサ-ナに比べたら、天と地ほど違いのある、和やかで
大変楽しいレッスンでした。しばらくわたしは動物性タンパクを摂らず、アルコールを
飲まないためか、体がとても柔らくなり、座って両足を頭の後ろで組む、難しいポーズが
できて、スッカリ嬉しくなりました。
 そのポーズは先生にお願いして撮っていただいたのに、残念ながらその写真
を紛失したのは、お調子者のわたしは、それが嬉しくて、帰国してから色々な人
に見せたためかも知れませんが……
 レッスンの後には、リラクゼーションがあり、若い男性の先生の語りかける
「リラックス、リラックス、ヘッド、アイズ、ノーズ、アンド、イヤーズ」などの
声が大変心地よく感じました。他の人たちは毛布をかけているのに、寝袋の中に
入ってるいるわたし達が、その先生はとても可笑しいらしく、ときどき声を出して
笑いました。
 
 わたしはその頃すでにヨーガ教室を開いていましたが、独自の指導法を
「リラックス・ヨーガ」と名前をつけましたが、あの時代は「リラックス」「ストレス」
など、まだ一般的な言葉ではなかったのです。
 インドのヨーガレッスンでも、リラックスを取り入れているので驚き、わたしの
指導法と同じなのだと、大いに自信を持ち、スッカリ嬉しくなりました。

眠れない夜

2010年05月25日 | Weblog
   ☆ それもまた良きかな
 我が家は小田急線の線路際にある。昔は本当に煩かったが、高架線になって
からは電車の音はまったく聞こえず、信じられないくらい静かになり、それに
スッカリ慣れてしまったので、夜中の工事の騒音は物凄く気になる。
 わたしは昔からあまりよく眠れるタイプではなく、目覚めたとき「本当に
良く眠った」と思えるのは皆無に等しい。
 今ブログでインドでの瞑想体験を書いているが、初めての体験をどう表現
しようとさんざん考えた。「わたしが日本で経験した、精神的なエクスタシー
のような、燦然としたイメージなどの能動的な状態ではなく、心がシーンとした
ような、肉体感覚がまったくない、まさしく「無」と言ってよいような、もっと
受動的な・・・・」などなど。言葉で表すのは本当に難しい。
 それにしても、心とは何と不可解なものだろう。
奥深くて、無限ではかりしれない。そんな心に翻弄されながら、これからの道を
歩んでいくのだろうか?

インドに瞑想を求めて 3

2010年05月24日 | Weblog
  ☆ 観光を一切パスして
 するとその二人も、わたしと同じ気持ちらしく、「リシケシまで来てこのまま
帰るなんて、とても考えられない」と意見が一致し、三人で色々なアシュラム
を訪ね、研修したいと申し込んでみようと、意見が一致したのです。
 すっかり意気投合し、三人でみすぼらしい茶店に入り、ヨーグルトで乾杯した
ところへ、日本人の女性が入ってきました。わたし達もびっくりしましたが
その人も嬉しいらしく、しばらく話しあいました。
 その女性はインドに一年間以上いるらしいのですが、現在彼女が滞在している
アシュラムなら宿泊できるかもしれないと、それからわたし達をアシュラムに
連れて行ってくれました。そしてその事務所で、わたし達の事情を詳しく説明して
くれたのです。その交渉した結果、「ヨガニケタン、アシュラムに」に、一週間滞在
できることになりました。偶然とは言え何とラッキーでしょう!
 その時は本当に、飛び上るほど嬉しくてなりませんでした。
研修の後はインド各地を回る、観光がセットされていたのですが、わたし達三人は
リーダーにパスすると言うと、大変嫌な顔をしましたが、「リシケシのアシュラムに
宿泊できず、満足できないから、もうしばらく滞在したいのです」と、ハッキリ
宣言しました。次の日リシケシを去る仲間を見送ってから、わたし達は「これから
ホントのヨーガ修行ができるのね。どうぞよろしく」と、お互いに固い握手しました。
   ☆ 「ヨガニケタン、アシュラム」に滞在できて 
 それから三人で、ヨガニケタンアシュラムへ向かいました。
そこは山の上にあり、力がないわたしは、自分の荷物を持って登ることできず
大変困りました。二人は「先に自分の荷物を置いてきてから、また迎えに来るから」
と言い、先に歩きはじめたら、若い男性が寄って来て「僕が運んで上げる」と、軽々
と持って運んでくれました。
 それはわたしがインドで受けた初めての親切でしたが、彼とはときどき街で出会
い挨拶を交わしました。そのアシュラムはガンジス河が一望でき、素晴らしい環境
でした。そこに入った途端に、わたしはとても感動し、体に電気が走り、心が洗わ
れるような気分になりました。そして、(このアシュラムなら、わたしが求め続けた
瞑想がきっと得られる)と予感しました。
 なだらかな雑木林の中に、白い宿舎が点在し、メデテーションホールの前には
美しい花が咲き乱れていました。その時、メデテーションホールの前で、美しい
笑顔で話しかけて下さったのが、わたしの一生の師である方でした。
 あの時の情景と、真っ青な空と、アシュラム全体の雰囲気は、今でもわたしの
脳裏にインプットされ、今でもありありと、まざまざと思い出せて、多分一生
忘れることはできないでしょう。


インドに瞑想を求めて 2

2010年05月23日 | Weblog
   ☆早朝アシュラムへ通って 
「シバナンダ、アシュラム」は、ビートルズが修行をしたそうですが、リシケシでは
有名なアシュラムでした。わたし達はそこに宿泊できなかったので、ツーリスト・バン
ガローから一週間、毎朝そこに通うことが決まりました。
 ヨーガのアーサナ(ポーズ)は、毎朝五時半から始まりますので、わたし達は
それに参加するため、四時に起きて約四〇分かかる道を歩き通いました。
 早朝は寒い上に真っ暗でした。足元に牛や馬のふんが落ちているので、懐中電灯
で照らしながら歩きました。ほとんどの人が携帯カイロを使いましたが、朝は
それほど寒かったのです。でも星がまるで降るように美しく、しばらく立ち止まって
は見とれたりしました。
 アーサナは一時間半全く休みなく行われ、まだ早朝で目覚めていない体には、
かなりハードでした。7時からダイニングルームで食事が始まりますが、鐘の音を
合図にあちらこちらの建物から、50人以上の人体がゾロゾロ集まってきました。
 ダイニングルームは大理石のフロアーに、薄い敷物を敷いた場所に、じかに座り
食事をします。お盆の上に野菜のカレー、ライス、チャパティーなどでしたが、日に
よって多少かわりましたが、それらを右手だけで食べるのは、わたしは閉口しました。
 無論美味しくなく、初めは何だか乞食になったような気分で、何とも情けなく
なりましたが、でも毎日朝晩食べていたので、だんだん慣れてきました。
☆ シバナンンダ・アシュラムでは瞑想はなかった
 アシュラムでは日曜日を除き、朝の五時半から夜の八時頃まで、マントラ(呪文
のようなもの)や、講義、また日本の禅問答?のようなものが行われていたようでした。
 英語よりヒンズー語の方が多いようで、何度か参加しましたが、わたし達を引率した
先生もまったく理解できなかったそうです。
 わたしがわざわざインドまで求めいてきた瞑想の講座は、全くないらしく、参加
できませんでしたので、本当にガッカリしました。
 アシュラムに宿泊できなかったため、毎日二回以上の往復に時間をとられ、目的の
ものが得られず、わたしは一日ごとに、悲しく情けなくなり、ホームシックになりました。
 だんだん欲求不満になり、誰もいないガンジス河の河原で、発声練習をしていると
自然に涙が流れました。折角インドのリシケシまで来て、わたしの求めていた瞑想が
体験できないなんて……わたしは何のためにここまで来たのだろうと、焦燥感に陥り
眠れない日が続きました。まして英語も話せず、臆病で淋しがりのわたしが、他の
アシュラムの門を叩く勇気もなく、どうして良いか分からないほど悲しかったのです。
 はじめは知らない人ばかりでしたが、毎日一緒に生活していると、お互いに親しくなり
わたしは若い女性の二人連れと仲がよくなり、いつも三人で行動をしていました。
 後二日で帰ると言う日に、わたしは思い切って、今の自分の気持ちを打ち明けたのです。

インドに瞑想を求めて 1

2010年05月22日 | Weblog
   ☆ 大昔の文章から
 これは昭和58年にある研究会で発表したものですが、その文章が整理していたら
出てきましたので、改めてご紹介します。わたしがヨーガの指導者になってから
何年経っても、瞑想状態を体験できず、求め、求めたリシケシへの旅でした。
 長くなりますので、何度かに分けて書くつもりです。
  ☆ 憧れのリシケシを訪ねて
 わたしが去年の12月、ヨーガ研修のため行ったインドのリシケシは、ヨーガの
聖地と呼ばれ、ヨーガを志す人は一度は訪れてみたいところです。
 この度はほとんどが指導者ばかりでしたが、その頃はインドへ行くのは、ヨーガ
を教えている先生がツアーを企画する以外ありませんでした
 ましてリシケシに長期滞在するツアーはなく、わたしもその頃すでにヨーガ教室は
開いていましたが、淋しがりのわたしはたった一人で参加しました。
リシケシはヒマラヤのふもとに近く、ガンジス河の上流域にあります。
ベナレスのガンジス河からは、およそ想像できないほどの、大変美しい清流でした。
 ガンジス河の両岸にはアシュラムが(ヨーガ道場)点在し、テンプル(お寺)も
あり、とても風光明媚な素晴らしい環境でした。
 昼間はとても暖かく、菜の花が沢山咲いていましたが、朝晩の冷え込みは非常に
厳しかったです。わたしはインドでのヨーガ研修は三回目でしたが、憧れのリシケシ
は初めてでしたので、瞑想状態を何とか経験したいと、とても大きな期待感を抱い
ていました。その頃は瞑想を求めて、座禅をしたり、早朝毎日座ったりしましたが
これが瞑想だという状態を、どうしても得ることができなかったからです。

 リシケシは首都デリーからローカルバスで8時間余り、そのバスは日本では考えら
れないほど、汚くて、オンボロでした。振動ですぐに窓が開き、何度閉めてもまた
開くのです。とうとう終点までそれのくり返しでした。
 おまけに粗末な木の狭い座席に、三人掛けでした。
一行は20人位でしたが、かなり着こんでいたのにもかかわらず、全員が寒さに
震えあがり、また腰の痛さにも悲鳴をあげました。
 その時はインドも異常気象とかで、冷たい雨が降っていました。
(当時は乾期でまったく雨が降らない季節なのです)ようやく辿り着いたリシケシの
「シバナンダ、アシュラム」ですが、宿泊の確約がなかったようで、その交渉の
ためか、寒く雨が降る中門の前で、3時間余り待たされ、わたしは本当に泣きたく
なりました。さんざん待たされた末、結局宿泊できず、近くのツーリストバンガロー
に泊ることになりました。バンガローはベットに毛布が一枚ついているだけの粗末な
殺風景な部屋でしたが、わたし達は全員寝袋を持って行きましたが、それが早速
役立ちました。

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