☆思いがけなくマントラをいただいて
ある日先生が「こちらにいらっしゃい」とわたし達を呼びに来て、三階に
上がると、そこにはアシュラムで最も偉い「スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ」
がコウモリ傘をさして(昼間は日差しが強い)椅子に座っていました。
96歳というご高齢のため、最近はアシュラムでは指導はしていらっしゃらず
長逗留している人達も、全くお会いしたことがないことを、後で聞きましたが
わたし達は大変羨ましがられました。
そこで先生は「日本から来たこと」などの他に、ここまで来た経緯を、マハラジ
に詳しく説明をしていたらしく、ニコニコしながら、「今日は特別に三人にマントラ
を上げよう」と、マハラジがおっしゃったので、わたし達は大変びっくりしました。
それから、一人一人を祝福して下さって、マントラを与えて下さったのです。
わたし達のように数日の滞在で、アシュラム最高のスワミから、マントラ(わたし
は幸せになるための言葉と捉えています)を直接いただけるなんて、何とラッキー
でしょう。わたし達はそれぞれにいただいた、世界で唯一つのマントラに、大変
感謝しました。そのマントラは、わたしの一生の宝ものになりました。
それ以来毎朝、一日も欠かさず唱えていますが、その時の写真は今も大切に
とってあります。
後から聞きましたが、私達が帰国してから、間もなくマハラジはお亡くなりに
なったそうですが、もしかしたら、「マントラ」をいただいたのは、わたし達が
最後だったのかもしれません。
☆リシケシの街を歩いて
昼食がないため、三人で馬車に乗ったり、三輪タクシーに乗ったり、時には
歩いたりして(3・40分)リシケシの街へ食事に出かけました。
リシケシの街はとても賑やかですが、聖地のためにか肉、魚などの動物食品は
なく、またアルコールもないそうです。
また街に出ても、(二人とも30代、Tさんは愛らしく、Yさんはかなり美人)の
ためか、日本人が珍しいためか、どこに行っても見られ、ときには何人かの男性が
ついてきて、本当に困りました。
人一倍神経質なわたしが、いつの間にか信じられないほど何も気にならなくなり
インドのお菓子を買って食べたり、時には道端で絞って売っているオレンジ
ジュースを飲んだり、色々なお店で食べたりしました。
食事の後は、お土産物屋さんをひやかしたり、街を見物したりしましたが、郵便局も
あったので、すぐに家族に手紙を書いて投函しましたが、わたしが帰国してからも
その手紙はとうとう届きませんでした。
ある日先生が「こちらにいらっしゃい」とわたし達を呼びに来て、三階に
上がると、そこにはアシュラムで最も偉い「スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ」
がコウモリ傘をさして(昼間は日差しが強い)椅子に座っていました。
96歳というご高齢のため、最近はアシュラムでは指導はしていらっしゃらず
長逗留している人達も、全くお会いしたことがないことを、後で聞きましたが
わたし達は大変羨ましがられました。
そこで先生は「日本から来たこと」などの他に、ここまで来た経緯を、マハラジ
に詳しく説明をしていたらしく、ニコニコしながら、「今日は特別に三人にマントラ
を上げよう」と、マハラジがおっしゃったので、わたし達は大変びっくりしました。
それから、一人一人を祝福して下さって、マントラを与えて下さったのです。
わたし達のように数日の滞在で、アシュラム最高のスワミから、マントラ(わたし
は幸せになるための言葉と捉えています)を直接いただけるなんて、何とラッキー
でしょう。わたし達はそれぞれにいただいた、世界で唯一つのマントラに、大変
感謝しました。そのマントラは、わたしの一生の宝ものになりました。
それ以来毎朝、一日も欠かさず唱えていますが、その時の写真は今も大切に
とってあります。
後から聞きましたが、私達が帰国してから、間もなくマハラジはお亡くなりに
なったそうですが、もしかしたら、「マントラ」をいただいたのは、わたし達が
最後だったのかもしれません。
☆リシケシの街を歩いて
昼食がないため、三人で馬車に乗ったり、三輪タクシーに乗ったり、時には
歩いたりして(3・40分)リシケシの街へ食事に出かけました。
リシケシの街はとても賑やかですが、聖地のためにか肉、魚などの動物食品は
なく、またアルコールもないそうです。
また街に出ても、(二人とも30代、Tさんは愛らしく、Yさんはかなり美人)の
ためか、日本人が珍しいためか、どこに行っても見られ、ときには何人かの男性が
ついてきて、本当に困りました。
人一倍神経質なわたしが、いつの間にか信じられないほど何も気にならなくなり
インドのお菓子を買って食べたり、時には道端で絞って売っているオレンジ
ジュースを飲んだり、色々なお店で食べたりしました。
食事の後は、お土産物屋さんをひやかしたり、街を見物したりしましたが、郵便局も
あったので、すぐに家族に手紙を書いて投函しましたが、わたしが帰国してからも
その手紙はとうとう届きませんでした。