ビビッド能里子トーク・サロン

心身両面の指導者として感じたこと

音楽にまつわる思い出

2009年04月30日 | 健康
☆ 散らかし魔のわたしが整理しながら
今日は素晴らしいお天気。夫は友人達と山菜採りを一泊旅行へ出かけたが
彼もこの年齢にして初めてなので、(わたしも未だ経験はない)ウキウキして
出かけた。わたしはペットと羽根木公園を散歩したが、目に沁みるような新緑で
つつじもとてもきれいだった。帰りにパンを買って、「グランパには内緒ね」
と、ペットと一緒に久しぶりに朝食にパンを食べた。
 午前はタンスの中身を整理しようと思って、ダンスミュージュクをかけな
がらやったが、誰もいないので曲を聴くとつい踊りたくなる。
ルンバ、チャチャチャ、ワルツ、などひとりで体が動いてしまう。
わたしはルンバが好きで、あのメロデーを聴くと、何だか何とも言えないやる
せないような気分になった。

 思い出せばわたしの先生はモダン種目(タンゴ、ワルツ、フォクストロット)
一辺倒で、わたしはそこで社交ダンス教師の資格をとりその学校の教師になった。そのダンス学校の〇〇年記念パーティに、わたしはどうしてもルンバを踊りたいと先生に言ったら、わたしがラテン・ドレスを着ていたのに、先生は何と燕尾服なので驚いたのは忘れない。
 ある有名な大人数のクラシシク・オーケストラがバックで、ルンバを踊ったのは、帝国ホテルでのデモンストレーションだったが、あの頃はわたしも若かったし、楽しかった。
 でも、プロでラテン種目(ルンバ、チャチャチャ、ジャヤイブ、パソドーブレ、サンバ)を
燕尾服で踊った先生は、今まで多分いないだろうなどと昔を思い出した。
 わたしは膝の屈伸ができないため、しばらく踊っていないが、やっぱり
ソシアル・ダンスを踊りたい!
 それにしても……わたしにとって広く浅くいろいろなジャンルの音楽は
まるで「命の拍動」のようなものだ。いつも感じるのは、もしも世の中に
音楽とお花とが(お酒もかしら)なかったら、どんなにか味気ない
ことだろう。


パリ旅行記 最終回

2009年04月29日 | 健康
☆ 知的美女達との旅は楽しかった
 二人がまたお土産物屋さんに寄ったので、わたしもつられて買い物をした。
以前パリに来た時は、すべてカードで支払って、請求がきたとき蒼くなった
から今回は、すべてキャッシュで、使ったのはシャネルの香水だけだった。
 まだ買い物をしている二人、わたしはお店を出て、(もうパリはさようなら
だわ、でも行きたいところはみんな行けたし、新緑もきれいだったし、パリの
朝はどんよりしていても、しばらくするとパーっと晴れた空が広がり、お天気
にも恵まれ、思ったほど寒くなかったし)など考えながら、オペラ座あたりを
何となくを見まわしていた。すると、突然「あ!パスポート持ってないのでは」
と、気が付きバッグを見たら、何とパスポートも残っていた日本円もない。
 一瞬ゾッとした。ホテルに預けておいた置いた機内持ち込みのバッグに入れて
うっかり預けてきたことに気がついた。またポカをやってしまったのだ。
 N子さんが「一流ホテルだからキチンと管理してくれているから大丈夫よ」
と慰めてくれたので、気持ちも落ち着いて、開き直ったつもりだった。
 でも内心(もしもパスポートがなかったら)と、気もそぞろだったが、それを
二人は敏感に察して「早くホテルへ帰りましょう」と、言ってくれたが、とり
あえずランチをしてからホテルへ戻った。すると、N子さんの言う通りに、パス
ポートも現金もあったので、ホットして肩の力が抜けた。

 まだ二時間ほど余裕があったので、二人で買い物や、モンパルナスタワ-など
を見てきたらと勧めた。わたしはホテルのロビーで本を読むつもりでいた。
 広々したロビーは人影もなくとても静かだ。ゆったりした一人がけの背が高い
一人がけのソフアーに座っていて、いつの間にかうとうとした。
 海外のホテルで居眠りなんて……こんな経験は生ま初めてだが、もしかして
緊張がゆるみ、疲れも出てリラックスしたのかも知れない。
 わたしと年齢が違う二人は、「どこに行きたいの」「脚は大丈夫なの」など
いつも優しく何かと気を使ってくれたし、教養のある二人について行くだけで
本当に安心して頼れたのは嬉しかった。ほとんどタクシーでの移動だったので
時間のロスもなくとても楽だったし、知的な美女と達との旅は、なかなか刺激的
でとても楽しかった。

 ことに、わたしの目的だった「ジベルニーへ電車で個人で行く」ことなど
T子さんがいてくれたからこそだ。さらに、インターネットで航空券からホテル
まで、格安のコースで見つけてくれ、すべて「おんぶにだっこ状態」でやって
くれ、面倒見の良くやさしいT子さんに、わたしは改めて感謝できた。
 今回がパリは最後の旅のつもりだったのが、三人とも何のトラブルも
なく、それなりに満足できた楽しい旅だった。
 帰りは夜だったためか、機内での時間が短く感じられ、一時少し気分が悪く
なったがその割には疲れなかった。出発するときにも、また帰国する時にも嬉し
さを感じるわたしは、だから海外旅行が好きなのだと思う。
 今まで行きたいところにはほとんど行ったし、何度も通ったインドは卒業したし
もうあまり海外へは行くつもりはない。でもハワイだけは別だけれど……
 それにしても、多分人生最後のパリは、とても思い出多い旅になった。 
長い間読んで下さって有難うございました。
                            能里子

パリ旅行記 7

2009年04月28日 | Weblog

   ☆ パリ最後の日
 その日は8時のフライトなので、タクシーで空港へ行けば、ほぼ一日ゆっくり
できる。ホテルに荷物を預け、わたし達はタクシーでシャンゼリゼまで行った。
 ルイビトンへ行き、彼女達が前日注文していた品物を受け取るが、その間
わたしは周りを観察したが、さすがにお店の雰囲気は格調高い。
 日本人が二人カタログを見ながら、一所懸命注文をしていたが、その時は
アジア人ばかりで白人は一人もいなかった。
 T子さんは財布を買ったが、「わたしこんなブランド品買うのは初めて」
だそうだが、記念にと言っていた。わたし自身はまったくブランド物には関心
がないが、日本で買ったアクセサリー類は、気がつかずにブランド物が多い
ようだ。パリが6回目だというT子さんは、まるで頭に地図が入っているように
詳しく、とても頼りになる。有名なお菓子の店「ラヂュレ」でお土産を買うそう
なので、わたしも一緒に並んでチョコレートをお土産に買った。

 それから道路に面しているカフェでお茶をしたが、寒いのでストーブがついて
テーブルや椅子が暖かった。これからどうするか相談した結果、オペラ座通り
まで歩くことに決めた。わたしは最後の日のパリの街を、ゆっくり散策したかった
から。二人はわたしの足を心配してくれ「距離があるのでタクシーで」と言って
くれたが、かなり沢山歩くロアール古城巡りをパスしたため、足は大変調子が
良かった。シャンゼリゼ通りは観光客があまりいないで、静かで歩きやすかった。
 きれいな花壇があり、わたし達はそこで写真を撮った。
途中でTシャツなど家族のお土産を買ったが、わたしは最後のランチを
以前行ったオペラ座に近いリッチなレストランでしたいと思っていた。
ディナーショーで食べたエスカルゴが美味しくなかったので、ワインもエスカ
ルゴも、とても美味しかった素敵なレストランで、パリ最後のランチをリッチに
ゆっくりとしたかった。でもわたしのうろ覚えのためか、いくら探しても
残念ながらそのレストランは見つからなかった。

 

世界心理治療学会で発表した小池能里子からのアドバイス

2009年04月27日 | 健康
☆ハフ・ツウ(しなけらばならない)よりウオン・ツウ(したいからやる)へ
 同じ毎日なら、できるだけ楽しく快適に過ごしたいと、誰でも思うのは人情
です。唯どうすればそうできるかは、実はあなたの心がけ次第なのです。
 たとえば、仕事にしても、家事にしても、何かをするときには、いやいやする
のではなく「00は誰かのために役に立っている、とても有意義なことなのだ」
と、考えるようにすることなのですが。これは単なる精神論でもなく、机上の空論
でもありません。生来我儘な自分をコントロールするために、わたし自身が工夫
した方法を、心理カウンセラーとして、いろいろな方にアドヴァイスした実体験
からお話できる事実なのです。
 例えば、これは極端な例ですが、トイレの清掃係の仕事の人がいたとし
ましょう。もしもその人が「こんな仕事は世の中で最低だ。でも他に仕事が
ないから仕方なくやっているのだ」と、思いながらやると、どうしても不平や
不満が多くなり、きっとストレスもたまることでしょう。
 ですから、同じ仕事なら、「自分がこうして綺麗にお掃除しているからこそ
大勢の人が、とても喜んでくれるのだ」と考えては如何でしょうか?
 わたしはいつも外でトイレを利用するとき、「こんなに気持ちよく使わせて
いただいて有難い」と、心から感謝しています。

 広い世の中にはそのように感じる人も、沢山いることを決してお忘れなく。
ですから、職業には貴賎がなく、たとえどんなお仕事でも必ず誰かのために
役立っているのです。働くという言葉は「他を楽にする」と言う意味も
あるのをあなたはご存知でしょうか?
 また主婦の仕事は生産性がないと言われますが、わたしに言わせれば、こんなに
遣り甲斐のあることはありません。だって、家事は大切なあなたのご家族の
ために、必要であり、役に立っているのですから……
 お洗濯だって、お料理だって、お掃除だって。だからわたしは言いたいのです。
「しなけらばならない」気持ちより、「したいからやるのだ」と、自発的に行動した方がより効率よく、すべてが捗るのは確かです。
 すると、気持ちの負担が軽くなり、自然にヤル気が出てきて、案外楽しくなる
可能性も大です。はじめは少々努力が必要ですが、ほんの少しだけ見方を
方向転換すると、いつの間にか「やらなけばいけない」から、「やりたいからやる」と心が変化するかもしれません。
 これは大脳生理学的にも、歴然たる事実ですが、気持ちの持ち方で、脳内でヤル気ホルモンが分泌され、より快適な毎日を過ごすことが
できるようになるのです。心あたりのある方は、ぜひトライしてみて下さい。
 






期待はずれだった味

2009年04月26日 | Weblog
 ☆遠路竹の子料理を求めて
 子供の頃から竹の子が大好きだった。好き嫌いはあまりないわたしなので
食べ物に執着心はないから、「00が美味しいと」聞くとどんな遠いところでも
出かけるグルメ友達を、実は内心呆れていた。
 でも先日NHKの番組で、竹の子料理が美味しいと放映されたのを見て、わたし
はどうしても食べに行きたくなったのは、それは何年か続けて千葉産の竹の子を
いただき、その美味しさを十分知っていたからだ。
 友人が電車の行き帰りの時間帯を、全部調べてくれたが、大分時間と交通費が
かかるようで、夫の友人達もわたしの友人達からも「わざわざそんな遠くまで
御苦労さま」と、冷やかされた。
 でも、我儘なわたしは一度思い立つと、絶対我慢できないから、夫を誘って
出かけた。千葉から大原までのガラガラ電車は、とても寒くなり脚が冷たく
なった。夫に「こんな遠くまで時間をかけて行っても、ホントに美味しいか
しら?」と聞いたら、彼は「あまり期待しない方が良いよ」「そうね、期待の
し過ぎは落胆の素だものね。わたしもあまり期待はしないわ」と、ほんの少し
前話した事が、現実になったなんて……
 いすみ鉄道は一時間に一本、大型バスを二台合わせたような大きさで、ローカ
ルカラー溢れた、きれいなワンマンカーだった。
 同じ電車にやはり「NHKテレビを見て来た」という二人ずれがいたが、テレビの
影響力はすごい。途中で運転手さんが、確か「レンゲの花が咲いている」と
説明してくれたが、田んぼにお子供の頃によく見た、ピンクのれんげ草が
一面に咲いていて、とてものどかな風景だった。

 長い時間をかけてようやく着いた駅は、まるでドラマに出てくるように
ひなびていて、駅名の看板は真っ赤に錆び、単線の線路脇には菜の花が咲
いていた。駅から近いタケノコ料理の専門店は、(これはあまり期待できないな)と感じた。
 時間と高い交通費をかけて行くのだから、本当は予約をしてから
高級なお店へ行きたかったのだ。
 でも観光協会で紹介してくれたお店は、居酒屋風で実は少々ガッカリしたが
お店はそこだけ一軒しかないので仕方なく入った。
 出されたいろいろな竹の子料理は、わたしが今まで味わった千葉の竹の子の
ような香リや味はなく、ただ柔らかいだけで、あまり美味しいとは言えない。
 思わず夫と顔を見合わせニヤリとした。
やはり、彼も同じように感じたらしい。落ち着かない雰囲気では長居できず
早々に退散し、予定の二時間前の電車で帰ることにした。
 すると、カウンター席の隣に座っていたご夫妻と駅で一緒になり、いろいろと
お話ししたが、お二人もわたし達と同じような意見だった。
 我が家に帰ったのは4時半過ぎで、およそ9時間の旅で、交通費は二人で約
一万二千円だった。夫に「長い時間付き合ってくれて、どうも有難う」と言うと
「どういたしまして、でもまるでタイムスリップしたようで、のんびりできたよ」
と言った。わざわざあんな遠くまで行ったのに、ガッカリしたなど、一言も
文句を言わない夫が大好きだし、そんな包容力がある彼を尊敬できる。
 でも、美味しいものを求めての日帰り旅は、多分これが最初で最後かも知れ
ないが、長い人生の中での、生きた教訓の一つなのかも知れないと感じた。


パリ旅行記 6

2009年04月25日 | Weblog
   ☆ 方向オンチの冒険 
 その日の早朝二人がロアールに出かけたとき、わたしはまだベッドにいて
「いってらっしゃい、行かなくてご免なさい」と、見送った。
 それから眠ろうとしても、なかなか眠れず、とうとう起きてお風呂に入り
シャンプーをしてスッキリした気分になり、ホテルのレストランへ行き一人で
朝食をした後、昨日から気になっていたおしゃれな鞄をゲットした。
 部屋に戻り、夜まで部屋に一人でいるのもつまらないと、改めてパリ市内観光
地図を見ると、そばにモンパルナスタワーがあり、そこからはパリを一望に見
えのだるそうだ。何とそこはホテルの部屋から良く見える高い建物だったので
行って見ようと思い切って外に出た。
 そしてホテルの周りを歩いてみたが、パリは道路が放射状なので、
日本と感覚がまったく違うが、道路を一本づづ確認しながら歩いた。
 その日は日曜のため、車も少なく、人通りもあまりないし、お店は休ん
でいるが、地下道を通り反対側に渡ったら、小さなスーパーが開いていた。
 とりあえずモンパルナスタワーへ、行ってみようと思ったが、ちょっと不安に
なった。なぜなら、大分以前親友とイタリアへ行ったとき、ホテルがミラノ駅の
近くだったので、「終着駅」の撮影場所ミラノ駅をぜひ見たかった。
 そのため、まだ寝ている親友を置いて、朝早く一人で行ってみた。
駅はじっくり見たが「行きはよいよい、帰りは怖い」のように、実は夜着いた
ホテルの外観を見ていなかったし、ホテルの名前も知らずに帰れなくなり
本当に困り、どうして良いか分からなくなった。
 幸い親友が心配しわたしを探して、ホテルの周りを歩いていたので、よう
やく帰れた経験がある。その時親友は「あなたは方向オンチだから、絶対に
一人歩きはダメ、あまり心配させないで」と言われ、それにスッカリ懲りて
絶対に一人では外を歩かくなかった。

 でも25階建てのホテルを確認しながら歩いていると、お目当てのモンパル
ナスタワーはとても近かった。さすが方向オンチなわたしでも、ホテルとの位置
関係がハッキリ分かった。唯人一倍臆病なわたしは少し不安だったが、丁度そこに
モンパルナスタワーに来たらしい一団がいたので、その人達について行った。
59階のタワーはお天気も良いせいで、パリの街が見事によく見え、すっかり
嬉しくなった。そこのカフェでジンジャーエールを飲みながら、(わたしってすごい!
こんな所に一人できちゃったなんて)と、周りを見ながら自画自賛した。
 帰りにはお花屋さんも開いていたので、今夜のディナーのため、珍しいブルー
と白と赤のバラを三本買って、一応ホテルに戻った。
 その日はロアールの古城巡りのため、かなり疲れて帰るT子さんとN子さんの
ために、工夫して料理を作ろうと思ったら、途端に楽しくなった。
 メチャ料理を作ろうと思い、そこで材料を買った。そこにはあまり野菜がない
が、自慢じゃないがそんな時のわたしの頭は素早く回転する。日本から持って
きたものを応用してに野菜料理つくったが、その夜のメニューはこうなった。
 1カニとトマトのサラダ 2ズッキーニのアンチョビー炒め 3アサリじゃが
4ハム 5たくあん 6五目ごはん 7イチゴとオレンジのデザートだった。
 お鍋の中で、じゃがいもがコトコトと音がしている。それを聞いたら、何とも
言えず幸せな気持ちになったが、わたしは海外でも主婦していてバカみたい。
 いつもではないが、海外へ行く時、パン切りまな板、ペテナイフ、海外用
電気鍋を持参する。それとご飯 缶詰 味噌汁など少し持ってくが、外食ばかり
だとバランスが悪くなるからだ。旅行先まで料理なんてとか、所帯臭いと
などと言われても、当人が好きなのだから仕方ない。
 遅く帰って来た二人は、それらを見てとても驚き、そして「美味しい」と食べて
きれいなバラを見て「お花まで飾って」と、大層喜び、また、臆病なわたしの
一人歩きを聞いて「凄い!能里子さん、良くやったのね」と、と褒めてくれた。
 ホテルでの最後のディナーも、三人でワインやビールなどを飲みながら、遅く
までしゃべりとても楽しかった。
 明日の夜はいよいよ日本へ帰れるのだ、と思ったらわたしはまた嬉しくなった。
 

 

突然よみがえった記憶

2009年04月24日 | Weblog
☆ 矢車草の思い出
 その頃都内の私立女子中学生だったわたしは、同じクラスの優等生だった
Tさんに憧れていた。クラスでは手紙のやりとりが流行っていたが, わたしが
彼女に明らかに恋したのは、あることで大変目立ってしまったためか、彼女から
もらった手紙からだった。
 この年齢にしても、少女時代と変わることなく、わたしは言葉より文字に
大変弱い。ましてもっと感受性が強い年頃だったためか、わたしは本当に
彼女に夢中になった。思い出せば恥ずかしいことだが、Tさんの関心を引く
ためなら、どんなことでも惑わずやったが、そのTさんが好きは花が矢車草
だった。「矢車草の花言葉は片思いよ」と、話すTさんに、(わたしの気持ち
わかってくれないの?)と、熱い目に見つめた少女時代。
 Tさんは都立の名門K高校に進学し、それでわたしの恋?は終わった。
 
 それは今思えば思春期の一過性の精神状態かもしれないが、今日は「花
コース」の二回目の授業だった。講義のあと畑に花の苗を植えたが、植える
畑の寸法を測ったり、耕したり、植えた苗の添え木をしたりなど、わたしに
は生まれて初めての経験だったが、前回より暑くなかったためか、まったく
疲れなかった。帰りに畑に咲いている矢車草をハサミで切って持って行って
も良いと、先生に言われ、わたしは矢車草を切りながら14歳に突然タイム
スリップした。二人で読んだ本、遠足の青い海、あの頃どこにいても、聞こえ
てきたTさんの声。セーラー服姿のTさんとわたし。
 大昔のことなのに、今でもまるでカラー写真を見るように、鮮やかに脳裏
によみがえるのは何故?それにしてもTさんは今頃元気だろうか?
 わたし達の同窓会もクラス会も全くなくなった今は、知る術もない。

いよいよジベルニーへ 5

2009年04月23日 | Weblog
 ☆ 再び来られた幸福感
 朝7時半頃ホテルを出て、タクシーでサンラザール駅へ。
インターネットで調べた時刻表は違っていたようだが、8時20分発の急行に
乗り、ジベルニーに近いベルノンへ約45分かけて着いたが、車窓からの田園
風景がメルヘンチックで、とことろどころにいろいろな花が咲いていた。
 ベルノン駅には連絡のバスがあり、それに飛び乗るが、日本人も何人かいた
ようだ。バスが着いたところは柔らかい新緑の樹木がたくさんあり、小川が
流れてとても雰囲気の良いところだったが、この小川がジベルニーの睡蓮で
有名な日本庭園に続いているのだと感じた。帰りのバスの時間をチェックし
地図を見ると、そこから目的のジベルニーまで、約五分ぐらいだった。
その日はお天気も良く最高の日和だったが、辺りを見渡せば小高い山も
あり、絵のような風景で画家のモネは、やはりこんな自然がイッパイの場所に
終の棲家を求めたことがとてもよく理解できた。
 まだ早いせいか園内は空いていたが、わたしは願望どうり再びここに来られた
幸福感を噛みしめた。数年前来た時より、まだ少し春が浅いためか、花の色が
以前より淋しい気がしたが、やはり独特のパステルカラーを基調にした花園は、
大変美しく素敵だった。花の香リを含んだ、柔らかい風が頬をそっとなでて
通り過ぎて行くようで、わたしはとても心地良かった。

 地下道を通り道路を隔てた日本庭園へ行ったが、想像以上の広さに友人達は
驚いたようだ。わたし達は有名な日本風の橋の上で写真を撮ったが、時間と
共に人がだんだん増えてきた。それぞれがその美しさを堪能し、また花園を
のぞむ隅にあるモネの住居を見学し、庭師だったモネが美しい庭を見ながら
最期を迎えたベッドや、収集された沢山の浮世絵を見たり、有名な黄色と
ブルーのキッチンなどを見学した。
 最後に昔はモネのアトリエだった売店で、ゆっくりお土 産を買って、前回
ツアーで来たとはい違って十分満足し、そこを出たのは11時過ぎだった。
 わたしが腰や足にトラブルがあると知ると、T子さんもN子さんもわたしの
荷物を奪うように持ってくれたが、その優しさがとても嬉しかった。
 わたし達が出た時には、入場するためにすでに大勢の人が並んでいた。
しかし土曜日のために、パリに帰る列車が二時間以上もなく、近くの素敵な
レストランでゆっくりランチをして時間をつぶした。
入口の駐車場には桜をはじめ華やかな花の咲いた樹木が沢山あり、後ろに
ある小高い山に映えてとても美しかった。

 パリに戻れたのは4時近く、また6時半からムーラン・ルージュのディナー
ショーを見るために、そのツアー会場まで行かなくてはならない。
 一休みしてドレスアップしてと考えると、とても寄り道する時間はなく
まっすぐホテルに帰らなければならず、タクシーでホテルに戻った。
 その後のムーラン・ルージュのショーは、T子さんも同じ意見だが、以前
見た方がずっと素敵で、少々がっかりした。
 ホテルへ帰ったのが12時、わたしはその時点で、ロアール地方の古城巡りは
キャンセルすることを、二人に伝えた。以前来た時にはかなり歩く距離が長く
さらにお城の階段の上り下りもあるので、体力的にもハード過ぎる。
 途中の車窓から見た、まるでじゅうたんのような菜の花畠が見られないのが
残念だし、二万円近いツアー代は戻らないが、後の事を考えてキッパリ諦める
ことにした。

シンプル・ライフ

2009年04月22日 | Weblog
   ☆ 過去よさようなら
 あるきっかけで閃き、いろいろな物を整理することにした。
わたしは余計なものは取っておかない主義だが、でもやはり捨てがたいものは
ある。でも今回はそれらを思い切って処分することにした。
 思えば浪費家のわたしは、講演の度や、カルチャーセンターで心理学の講座を
持っていたので、衣装代は今から想像できないほど使った。
 そのため、クローゼットにはここ何年か袖を通していない、まだ新しいコート
スーツワンピース、スカートジャヤケット、ドレスなどがある、それをビ二―ル袋
に入れたらすぐにイッパイになった。今まで捨てがたかったのだが、スカスカに
なったクローゼットは、風通しがよくなった感じで気持ちが良い。
 次はセーター類だが、セーターが大好きなわたしは、海外で買ったものが
多く思い出のあるものだ。「これはフランス、これはニュージーランド、これは
スペイン、これはスイス、これはイタリア」などと、一枚一枚眺めながら、その
ときの情景を思い出しながら、どれを捨てるか選んだ。

 結局日本で買ったものを含めて捨てたセーターは7枚、スカート、スカーフ
ブラウスなども処分した。すると夫が「そろそろ死期が近づいて来たんじゃやない」と
ニヤニヤしているので、「わたしいつ死んでも良いの。だから始末して
いるのよ。あなたはわたしとどっちが先に死ぬと思う?」すると、夫は
「それは絶対先に死んだ方が得だよ」とのたまう。
 それはわたしも同じ気持ちだが、これが老夫婦の会話だ。
 それにしても、今のわたしの生活は、何と地味になったのだろう。
突然過去の華やかだった頃が、ありありとまざまざとよみがえったが
それを引きずるのはもうよそう。それに現在の年齢であんなに忙しかったら
多分もうこの世にいないかもしれない。それに比べたら、今は十分時間がある
から、この状態がベストなのだと、しみじみ思った。
 また衣装の整理とともに、今まで大切にしていた携帯のメールもすべて
潔く削除した。これでかなりスッキリした気分になったが、これから、写真
なども少しづつ整理し、できるだけ身の回りをスッキリさせようと思っている。
 悔いのない人生を歩んできたわたしだから、これから、もっと生活自体を
シンプルにしなければならない。


パリ旅行記 4

2009年04月21日 | 健康
   ☆ モン、サン、ミッシェル一人旅 4
パリには日本人だけのツアーがあり、日本語で案内をしてくれる。
数年前に来た時には、ジベルニー、ロアール古城めぐり、ムーランルージュの
ディナーショウなど、すべてそのツアーで行った。
このツアーもT子さんが申し込んでくれたが、無論日本人だけだと思って
参加した。モン・サン・ミッシェルはパリから最も遠く、早朝から出て深夜に
帰宅するツアーだ。二人とも以前行ったことがあるそうで、日本人だけなら
安心だと思い、フランスの中の世界遺産第一位だと聞いたら、余計に行きたくなった。
パリは今回で最後につもりだし、折角のチャンスだからと、わたし一人で参加した。
朝6時半にホテルまで迎えが来るが、T子さんがわざわざホテルの玄関まで
送ってくれたが、彼女は本当にやさしい人だ。
まだ外は真っ暗だ。ようやく迎えの車が来たが、何と外人だけしか乗って
いない(嘘!日本人だけのツアーでしょ)と、一瞬ビビったが仕方ない、今更
引き返すわけに行かない。いろいろなホテルから出発場所まで送られてくる人は
体の大きな外人ばかりだ、クーポン券がないわたしは受付で名前を言うと、申し
込まれていないと言われ、日本でインターネットで申し込み、昨日電話で確認を
とったのだと言っても「ない」と言うので、心細くて泣きたくなった。
 するとそこに日本女性が二人表れたが、彼女達はクーポン券を差し出したが
やはり断られたようだ。「実はわたしも同じです」と言って、一緒に交渉して
もらって、ようやく確認がとれてほっとしたが、まさしくわたしにとっては
「救いの神」だった。ようやく二階建てのバスに乗れたが、今回のツアーは
イタリア、アメリカ、日本のツアーで、二階に上がると日本人が10人以上いて
日本人のガイドがいて、(本当に良かった)と嬉しくなった。

 バスはいよいよ走り出したが、行程は約四時間半350キロの長旅だが、だん
だん明るくなり景色が見えてきたが、バスはひたすら走る。
 美しい田園風景が広がり車窓の景色を楽しんだが、大阪から来た二人の女性と
行動できたので安心した。途中バスはトイレ休憩のためドライブインに一度だけ
寄ったが、途中は白いリンゴの花が美しかった。
二時間ぐらい走った頃から、雲ゆきがあやしくなりやがて雨になったが、ガイド
の説明によると、モン・サン・ミッシェルは大変雨が多いそうだ。
やがてその姿が表れたが、もっとも美しく見える地点だというが、残念ながら
が雨のためかすんで、わたしはがっかりした。
 12時頃にそこがもっともよく見えるレストランに着いて、名物のオムレツ料理
を食べたが、それがまったくいただけない。土地柄ブドウの栽培はできないため
リンゴを栽培し、そのお酒「シードル」を出されて、飲んだがあまり美味しく
なかった。 モン・サン・ミッシェルは岩山を削って作られたそうだが
11世紀から500年間にわたり改築されているそうで、今もまだ続けられ
ていた。海の中に、初めは修道院として建てられたが、その後要塞、牢獄など
として使われたそうだ。それから、作家ビクトル、ユーゴーが運動して、現在は
ミュージュアムとなっているが、世界遺産となったのだ。
 中はまるで迷路のようだが、立派な教会や、食堂、集会堂などがあり、それを
ところどころ見学し、その見事さに驚いたが、中には岩山がむき出しのままの
状態もあった。外からは想像できないが、美しい緑の庭園もあって驚いた。
でもわたしは、冬はどんなにか寒かっただろうと想像でき、かってそこに
暮らした人々の苦労を思った。
 日本人ガイドはとても要領が悪く、大阪の女性はもどかしがっていたが、
活舌が悪く言葉がよく聞き取れないことにも、実はわたしも大変苛立った。
 見学後自由行動は約一時間、岩山を降りて行く途中に売店が沢山並んでいるが
途中のカフェで三人でお茶をして、いろいろ話したが、二人は大変安い旅を
楽しんでいるそうだ。「孤独に弱く、憶病なわたしなので、一緒に行動して
下さって本当に助かりました。有難う」と、わたしは心からお礼を言った。
 4時半出発し、ホテルへ帰ったのが10時半過ぎ、二人は起きてわたしの帰り
を待っていてくれ、緊張が解かれほっとしてとても嬉しかった。
 その日は朝から不安で緊張しまくり、とても疲れたが、でもやはり行ってきて
良かったと思ったが、でも,こんな長い一人旅は絶対に嫌だと感じた




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