ビビッド能里子トーク・サロン

心身両面の指導者として感じたこと

インドと私 7

2015年06月30日 | えっせー
 ☆ 求め、求めていたものが得られた
 毎日朝夕行われる瞑想の時間に出席できたのは、本当にラッキーでした。
瞑想の60分は始め足ばかり気になって、あまり良い精神状態にはなれま
せんでした。瞑想の最後を告げる先生の「オーム」と唱える声に、私はハッと
しました。時間の経過も、肉体感覚が全くなく、心の中がシーンとして
(もしかしたらこれが瞑想状態では)と思える精神感覚を掴めたのです。
それは確か3日目の早朝でした。上手に表現できないのですが、一瞬頭の
中が無になり、でも心だけが存在しているような・・・・そんな状態を生まれて
初めて体感し、(これが瞑想状態だ)と感じたとき、心の奥から込み上げて
くるような歓喜や感動は、一生忘れられないほど強烈でした。
※ 記念すべき日のガンジス河
 
(やっぱり聖地リシケシに来て良かった!)と、嬉しくて流れる涙に身を
まかせた私を、客観的なもう一人の自分がじっと見ていた・・・それは、いつも
真摯に求めていた瞑想状態を得た私に、今考えてみるともう一人の水面下の
自分(潜在意識)が、「今まで一所懸命にがんばったものね」と、きっと祝福
してくれたのかもしれないと、自己分析してます。
 私はヨーガを指導して10年近く、長年努力しひたすら求めても、どうしても
得られなかった瞑想の感覚を、その日にハッキリ体感できたのです。
 ※瞑想を体感できたメデティーションホール
 
 私はその後のヨーガアーサナをパスし、清らかな空気の、まだ明けやらぬガンジス
河や山が見えるベンチに、座り目を閉じました。
 すると、「やっぱり聖地リシケシに来てよかった!」と、瞑想を体験できた感動
喜び、また達成感と、幸福感などで舞い上がりたいような気持でした。
 ☆大きな気づき
 インドに来てからの経緯を、いろいろと思い起こすと、私は大変幸運なこと
に気がつきました。わざわざ聖地リシケシまで、瞑想を求めた旅でしたが、
リシケシに来られたのは、
 師事していた先生がツアーを企画し、それに参加したから…
もしもあの日に、宿泊予定の「シバナンダ」に宿泊できたとしたら…
私の気持ちを、二人の女性に打ち明けなかったとしたら…
彼女達が私と一諸に行動してくれなかったとしたら…
 あの茶店で日本人女性に会わなかったとしたら、などなど…
それらの偶然がいくつか重なったのが、大変幸運だったことに、改めて
気がつきました。もしもそれらの一つが欠けていても、多分実現できな
かったでしょう。わざわざこんなに遠い聖地リシケシまで来ても、求めて
いた瞑想は得られなかったに違いありません。
 我儘な私はいつも自分中心に考えるタイプで、言葉には出しませんでしたが
絶えず不平や不満があり、そのために、胃がキリキリと痛むことがしばしば
ありました。その時に改めて「見えない導き」を、私は強く感じたのです。
 ※初めて歩いて行った遠い橋 そこには物乞いが並んでいた
  
 
別に瞑想ができなくても、誰にも分からないし、ヨーガの指導はできるのです。
 大変不器用な割には、比較的カンや要領がよく、どちらかと言うと物事の表面
だけを捉え、あまり深く追求しない軽薄な私。
 それなのにこれほど真摯に「瞑想」を、何年間も求め続けたなんて…
何故なのかしら?しばらく考えていましたが、やがてそれを深く求め続けたのは
(私自身が精神的に向上するために、きっと神様が給えて下さった試練なのだ)
と、ハット気づきました。すると突然心の奥から感謝の気持ちが、溢れるように
湧き上がってきたのです。私の周りのすべての人間関係、環境、また今現在
インドの山奥の聖地リシケシにいる自分自身にも… 
 だんだん明るくなってきた周りが、荘厳で清浄で暖かく、キラキラ輝いている
ように感じ、その時空を超えた空間に、私はしばらく漂っていました。
 ※ 先生のお部屋でいつもご馳走になった
 








インドと私 6

2015年06月29日 | えっせー
  ☆ ヨーガニケタンでの修行 
 何より嬉しかったのは、そのアシュラムには、毎日朝晩瞑想の時間があった
ことです。7日間も滞在するのですから、ここで私は「絶対に瞑想状態を体験
できる」と確信を持ちました。そこに滞在して二日目に、メデテーションホール
の前で黄色いサリーを着た、早朝の瞑想を指導なさる女性の先生に話しかけ
られました。あの日の空の色と、美しい笑顔で話かけられたことは、一生忘れ
られいほどの思い出ですが、私が長年ヨーガをご指導頂いた先生になりました。
※お元気だったマハラジトアルナとラルタ姉妹
 
そのアシュラムでは、朝5時夕方の6時に毎日一時間の瞑想がありました。
わたしは朝夕必ず参加しました、ことに朝は暗く大変寒く、鐘の音を合図に
あちらこちらのコテージから、ぞろぞろ人が出た来て、メデテーションホール
に集まりますが、ほとんどの人が毛布をかぶってて参加しました。
※ヨーガレッスン風景



 ☆ 瞑想の時間
初めて参加したとき「ジャパニーズ・レディーズ」と、三人が呼ばれて
瞑想の始る前に、先生からこんな注意事項がありました。
 それは「咳をしても、くしゃみをしても、また足がしびれじっとしていられ
なくなっても、すぐに外に出るように」と、かなり厳しいものでした。
 実際に途中で出ていく人も、何人かいましたが、お腹が鳴っても、足を少し
ずらしても、聞えるような静けさでした。
 少し音を出すと「ビー・クワイエット」と誰かが、必ず小声で注意をします。
灯りは先生が座っている場所に一つだけあり、ほの暗くはりつめたような中に
も、何か暖かいバイブレーションが感じられました。
とても40人近い人がいるとは思えない、本当に静寂な雰囲気でした。
※ 先生のポーズ
  
 私はヨーガ歴は長いのですが、一時間微動だにしない行法は、正直言って大
変きついものでした。でも、まだ暗い早朝でガンジス河の対岸にあるヒンズー
教の寺院からはコーランが聞えて、何とも言えない幻想的で清浄な雰囲気でした。
 一時間の瞑想の後にアーサナ(ポーズ)が行われますが、私はインド人の
先生に習ったので、サンスクリット語と英語で行われるレッスンは、ほとんど
理解できて困りませんでした。でも、瞑想だけで出て行く人が多く、アーサナ
をやる人は半数位しかいませんでした。その後にはリラクゼーションがありま
したが、「これって私の指導法と同じ」と、驚くと同時に大変嬉しくなりました。
 リラックスするときには、寒いため毛布がない私達は、寝袋の中で受けました
が、顔だけ出しているわたし達を見て、先生はいつも笑っていました。
 ※ 私もガンバりました
 
 これを書きながらも、大昔インド人独特の声で「ネック、ショルダー、エンド
バック、リラックス、リラックス」と語りかける男性の先生の声が聞こえるよう
な気がして、何だかとても懐かしく、胸が痛くなるような思いでした。
 でも、あのときには、座ったままで頭の後ろで両足を組んだ難しいポーズが
できたほど、身体が柔らかくなっていたのです。
 多分肉類や魚介類などはまったく食べず、無論アルコールも飲まなかったので
身体が大変柔らかくなっていたのでしょう。
 その生まれて初めて出来たポーズは、写真に撮ったのですが、帰国して
皆なに見せびらかしたためか、紛失したのが今でも残念でなりません。

 




読者からの電話で

2015年06月29日 | えっせー
 夕方中年らしい男性からの電話で「セルフ・コントロール法」を注文したら、
すでに絶版になっているので、最近出た本はありませんか?」と問い合わせが
あった。自分の周りの若い人達にプレゼントしたいそうだが、続けて出版さ
れたのは明らかに中年女性向きの本なので、17年間ロングセラーの
「心が楽になる本」(扶桑社文庫)を紹介した。
 「もしかしたら小池先生ですか?」と聞かれ、そうだと答えると、その男性は
一瞬絶句した。
※ 三笠書房知的生き方文庫
 
「ビックリしました、先生と直接お話しできるなんて、あの本は本当に良い本
ですね。大げさに言う、私はあの本で命拾いをさせて頂きました。先生とお話
しできたなんて・・・今日は記念すべき日になりました」と言われた。
 やっぱりとても嬉しかった。「セルフ・コントロール法」は私の4冊目の本で
その元の本「リラックスで人生が変わる」(同文館出版)が、タイトルを変え
内容を少し書き換え文庫化された。
 「長年ロングセラーで大変版を重ねた本だった。
※同文館出版
 
「リラックスで人生が変わる」は、ストレス時代を先取りした本で、あちこち
でも随分書評に取り上げられた。また、東京八重洲ブックセンターの心理学部門で
一時は一位になったし、紀伊国屋本店、また新しく開店した新宿南館でも一年間
以上平積みになっていた。まだそんな本が少ない時代だったから、多分売れたの
だろう。 「昔はよくこんなことがあったのに」と、思い出したが、本の影響力は
とてつもなく大きい。今でもまだそう感じて下さる読者の方がいて下さるなんて・・・物書き冥利につきるけど。
 それにしても、さて次の著書は一体いつ頃出せるのだろう?
気がついたら、朝からけだるく何もしたくないダラダラした気持が、すっかり
払拭していた。何とも気分がすぐ変わる自分に少々呆れたが、これが私の本来
の姿なのだと妙に納得できた。


インドと私 5

2015年06月27日 | えっせー
 ☆ ヨーガニケタン・アシュラムに滞在して
 バスでこれから観光旅行に行く仲間を見おくって、私達3人は
「ヨガ二ケタン」に移動しました。
 ※ 一緒に行ったヨーガ指導者達(チベット寺院で)
   
 ※ リシケシに残った3人
 
 そこはかなり高い山の上でしたが、友達になった男の子たちが上
まで荷物を運んでくれました。そのアシュラムは荘厳で宗教色の強い
シバナンダ・アシュラムとはまったく感じが違い、とてもやさしい
雰囲気でした。ガンジス河が一望できる、山の上は素晴らしい環境で
私はそこに入った瞬間、心が洗われるような感動を受けました。
 なだらかな雑木林の中に白い宿舎が点在し、メディテーション・ホールの
前には、美しい花が咲き乱れていました。東洋人は私達だけでしたが、私達は
そのコテージの一つに滞在しましたが、そこには粗末なベッドと、清潔な洗面
所、水洗トイレなどが設置されていました。
 滞在している人の多くは、ヨーロッパ系の白人男性が多いようで、2か月
とか3カ月長期滞在しているようで、彼らは1週間しか滞在できない私達に
大変驚いていました。
 ※ 林の中に点在するコテージ
 
  ※キレイなお花が沢山咲いていました。
 
山の上にあるそのアシュラムは、とてもアットホームで、食事は日本の
縁側のような明るく穏やかな雰囲気で、前のアシュラムとはまったく違って
大変和やかでした。スプーンやホークや箸を使っても、自由でしたが、私達
が箸を使うのが珍しいらしく、一緒に食事する全員が、面白そうに見つめて
いました。ここではとてもリラックスして、楽しい気分で食事ができました。
 ※ 和やかな食事風景
 
 ☆ リシケシでの生活
 修行は朝と夕方だけで、食事も二食でしたので、昼間はよく定期馬車に
乗って街に出て買い物をしたり、食事もしたりしました。
 リシケシは聖地のため、アルコールや、動物の肉や魚などはまったく
ないそうで、タンパク質は豆類と乳製品だけでした。
 でもとてものどかなのんびりした田舎町で、物乞いなどほとんどいません
でした。街には果物やヨーグルトや、クッキーなど、またお菓子も沢山種類
があり、神経質なわたしですが、その頃にはリシケシにすっかり馴れて、彼女
達と同じように、何でも食べられるようになっていました。
 郵便局もありましたので、そこから、日本へスケジュールが変ったことに
ついての手紙を出しましたが、なかなか届かずに、私が帰国してから自分
でそれを受け取り笑ってしいました。
 ※対岸へは渡し船で行きましたが、何時もこんな満員ではありません。

 ※ 街へは馬車で行きました
 
 お土産物や、茶店もたくさんあり、結構面白かったですが、昼間は春の
ように暖かく、菜の花が咲いていて、のどかでどこか日本ととてもよく似た
風景で、一瞬日本にいるよう錯覚さえ起きるほどでした。
 私達は毎日のようにガンジス河に出かけ、川の流れの音を聞いたり、小鳥
のさえずりを聴いたり、対岸に渡り、アシュラムとか、公園などを探検
したりして楽しい時を過ごしました。 
 ※キレイなガンジス河
  

インドと私 4

2015年06月27日 | えっせー
 ☆シバナンダ・アシュラムでのヨーガの研修
 次の日からシバナンダ・アシュラムに通うことにしましたが修行は
毎朝5時半から始りますので、私達は朝4時に起き約40分かけ歩き
毎日通いました。早朝は寒くて真っ暗で、足下には馬や牛の糞が落ち
ているので、懐中電灯を持って、足下を照らしながら歩きました。
 でも星が降るように美しく、その美しさにしばらく立ち止まって見
とれました。アシュラムでの、アーサナ(ポーズ)と呼吸法は、一時間
半まったく休み無く行われましたが、早朝でまだ目覚めていない身体には
かなりハードでした。でも私が求めていた瞑想の時間は、まったくあり
ませんでした。7時からダイニングルームで食事が始りますが、鐘の音
を合図にあちらこちらの建物から、50人以上の人が集まって
きました。
 ※シバナンダの内部
 
 ダイニング・ルームでは大理石のフロアーに、薄い敷物の上にじかに
座って食事をします。野菜のカレーのようなもの、何が入っているかわか
らない茶色いライス、チャパティ(インド式紅茶)もありました。
 でも、私は何故か乞食になったような、ちょっと情けない気持でした。
決して不味いわけではないのですが、右手だけで食べるのには閉口しました。
※ダイニングルームでの食事
 
 アシュラムでは夕方5時半から8時までマントラ(呪文のようなもの)や
講義もありましたが、多分もしかして日本でいう、禅問答のようなものがで
はないかと感じましたが、それらはすべてヒンズー語でした。
  ☆ 瞑想の講座がなかった
 私が求めていた瞑想に関する講座はまったくないらしく、大変失望しました。
たとえ言葉が理解できなくても、その雰囲気や内容に触れることができれば
と思いましたが。またアシュラムに宿泊できなかったため、その往復に朝晩
大変時間をとられ、さらに求めていたものが得られず、私は欲求不満になり
ました。昼間は誰もいないガンジス川の河原で、一人でぼんやりしたり
思い切り大きな声を出して発声練習をしたりしました。
 留守にしているヨーガ教室や、ダンス・スタジオのことを考えたりし
どうしようもない感情がこみ上げてきて、いつの間にか涙を流していました。
 あのときの焦燥感や悲壮感は、私がかって味わったことがないほど深刻で
(瞑想を求めて、遠いリシケシまできたのに)と、焦りと、いらだちとか織り
なす激しい感情てした。
  
 ☆ガンジス河原でクイック・クイック・スロー
 その頃は日本人が少ないせいなのか、街を歩いていると男性達が、ニヤニヤ
しながらついてくるのには閉口しました。
 一人で河原にいても、必ず若い男性達に囲まれましたが、多分高校生位の
年齢かも知れません。一人でいた私の傍に3人の男性が来て、「どこから来た
の?」「どうしてここにいるの?」「今どこに泊っているの?」などと矢継ぎ
早やに聞くのです。インドの公用語は英語ですが、お互いに片言でも、結構
会話は通じます。私は「一人ずつ聞いて」と、3人を指差しながら「1」「2」
「3」と言うと3人は笑い転げました。日本人は若く見られるようで、中年の
私を20代だと思ったようです。何回か同じ場所で彼らに会い、私がダンス
教師だと言うと「教えて欲しい」と言われ、「では明日ね」と約束し、それから
テープを持っていって、彼らに2回マンボを教えました。
 ※3人の男の子にマンボを教えて
  
みんなとてもカンが良く楽しそうで、4人でよく笑いながら踊りました。
そんな一時は私の気持ちがとても癒され、その辛い気持が吹き飛び、もともと
楽観的なので「何とかなる」と、明るい期待感さえ湧いてきたのです。
 ☆観光旅行を全部パスした 
 リシケシでの滞在期間が少なくなる頃、知らない同志も仲良くなり、会話も
弾みました。
 ※ ツーリスト。バンガローでの食事
    
 ※ みんなでふざけて
    
 初めから気が合って、いつも行動を一緒にしていた若い女性二人に、私が
リシケシに来た目的や、今の焦燥感など、本当の気持ちを正直に打ち明けた
のです。すると、二人とも私と同じような気持ちで、求めているものが得られ
ないもどかしさが共通なのを知り、「何とかならないか」と三人で相談しました。
 また幸運なことに、現地の茶屋で知り合った日本人女性から情報を得て
他のアシュラムを訪れたのです。二人とも英語が堪能だったのも、大変ラッキー
でした。交渉した結果そこに三人で滞在でき、研修できることが決まり、どんな
にか嬉しかったことでしょう。三人で抱き合って喜びました。
 「観光は一切パスして、帰国するデリーで落ち合いたい」と、ツアーリーダー
に報告すると、極端に嫌な顔をしましたが、私達にはそんなことを考える余裕
はまったくなかったのです。

(何のためにこのリシケシまで来たの?)と言う気持ちが私の中では渦巻
いていましたから・・・・・・でも三人の気持ちが一致し、そこに留まることになった
ので、(このリシケシでわたしの求めたいたものが得られる)と感じ、心の中に
明るい希望が芽生えました。またそこで一生の師と仰ぐ先生にも巡り会え、求め
に求めていた瞑想が得られたのは、運命的とも思えるヨーガニケタン・アシュラム
との出会いでした。 


インドと私 3

2015年06月26日 | えっせー
☆ 瞑想を求めて
 私がヨーガ教室を開いてから、今では信じられないようなもの凄いブーム
が到来したのです。もう再び「インドへは行きたくはない」と思いながらも
リシケシへ行ったのは、確か三・四度目でしたが、それは指導者として瞑想
状態を求めたからです。毎日早朝から一時間位座ったり、座禅をしたり、他の
精神療法も研鑽しましたが、どうしても「これが瞑想では」と思える境地に
はなりませんでした。ヨーガに惹かれたのは、その精神性でしたのに、何故
私はその瞑想状態を体感できないでしょう。
 もしかしたら、そのための基礎的な精神性が欠如しているのではないかと
そんなことは誰にも話せず、一人で悩んだりあせったりました。
 そんなとき、その頃師事したいた先生が、ヨーガの指導者だけでリシケシ
(ヨーガやヒンズーの聖地)で修行をするというツアーがあり、早速申し
込みました。リシケシはヨーガを志す人は一度は行きたいと思う、憧れの聖地
でしたので、ヨーガ・インドツアーには入っていても、その滞在は三日間位
でした。そのツアーはリシケシ滞在が一週間で、現地の道場で研鑽できる
私は喜んで参加しました。
※リシケシの風景
   
☆ リシケシに着いて
 リシケシはヒマラヤの麓に近く、ガンジス河の上流域にあります。
聖地のためか、肉や魚類、アルコールもないそうです。
 ふつうオーダーのツアーは専用バスですが、主催者が地味なためか、首都
デリーからおんぼろバスの乗るので本当に驚きました。
 途中でバスとすれ違う時は、道が狭いために接触しながらすれ違ったの
は、大変ショックでしたが、周りの風景は菜の花が咲いていて、日本の
田舎を走っているような、のどかな雰囲気でした。
 ※ 満員バスの車内
  
  
 乗り合いバスは本当に汚く、現地の人も一緒で、満員で屋根の上まで人が
乗っていました。座席は前に向いた三人掛けでしたが、窓がすぐに開いてしまい
押えてもまたすぐ開くのくり返でした。木の椅子なのでクッションがなく、腰の
痛さや寒さに震えましたが、まだ暗い早朝バスに乗ったのに、リシケシに着いた
のは、もう夕方でした。
  ※屋根まで人や荷物が載っていたので登ってみた
   
 ビートルズがそこで修行したことで有名になった、「シバナンダ・アシュラム」
に宿泊の予定でした。そこへついても連絡がとれていないのか、その交渉のため
添乗員とツアーリーダーが中に入っていっても、なかなか出てきません。
わたし達は門の中に入れて貰えず、雨が降り出した寒い中を、信じられないよう
ですが、何と3時間も待ちました。でも結局そこに宿泊できず、近くにツーリス
トバンガローに泊まることになり、そこからシバナンダ・アシュラムへ通うこと
になったのです。そのバンガロ-は粗末なベッドに、毛布が一枚だけついてい
ましたが、季節は冬でしたし、わたし達はアシュラムに止まるつもりでしたので
全員が寝袋を持っていきましたので、それでがすぐに役立ちました。
  ※ 雨が降って寒い中待たされた「シバナンダ・アシュラム」の門前
  

  時間を奪っても、生涯学習を続けたい

2015年06月24日 | えっせー
 ☆ 知識を吸収する楽しさ 
 私は遊ぶのも大好きだが、それだけで過ごすのは耐えられない性質だ。
「できれば、死ぬまで何らかの勉強をしたい、怠惰に生きるなら死んだ方が
まし、私にとって生きている証しは、何かを学んでいること」だから。
 などと偉そうに言えるのは、自分が健康だからだこそだと思う。
都内には沢山のカルチャーセンターがあり、各大学でも講座を開講している。
 それらはアカデミックなものから趣味的なものまで、さまざまな種類があり
大変手軽に学習できる。
 
 ある学会にも参加しているが、そこはアカデミックな情報や知識が得られ
るし、私も理事のはしくれなので、毎回出席しているし、そこで発表したこと
も何度かある。どんな忙しかったときでも、時間を奪っていろいろ学べた
のは、何と言っても新宿、渋谷まで15分の近さ、また、我が家から梅ヶ丘駅
の改札口まで140歩と近い地の利の良さだ。
 さまざまな知識は、私の「頭の引き出し」にインプットされ、必要に応じて
とり出せる。(最近すぐ忘れることも多々あるが)さらに、だんだんさびつい
ていく頭を刺激する効果は十分あると思う。

 今日の午前中は成城学園前の成城ホールの一室で「イタリア美術」についてを
多摩美大教授が講演なさった。私はローマは3回、バチカン美術館、べネチュア
サン・マルコ大聖堂などに2回も行っているのに、知識がなかったために、その
素晴らしさを理解できなかったのは、今でもとても残念だと思った。
 それは後の祭りだが、でもそのお話しは思い出と重なって、なかなか楽しかった。
成城学園前駅から梅ヶ丘まで15分足らず、12時20分、家に帰ったら、夫
は準備していたお昼は食べていた。私も急いでお昼を食べて、1時半から始まる
青山のNHK文化センターの講座に駆けつけた。
 その講座は「戦後70年の女性の歴史」だが、女性活動家の先生はとても
素晴らしい、最先端の事実、過去のさまざまな出来事など、すべて実際に
起きた出来事なので大変説得力があり、その頃の時代や、知識慾を刺激し
十分満足できる素晴らしい講義だ。
 帰宅4時、着替えてすぐに約30分、自分のために簡単なレッスン。
それから夕食の準備、下ごしらえをしてあるので、15分で完成、夕食のビール
を飲んだがとても美味しかった!
 
 またある大学の講座でも受講しているが、かなり奥深く専門的な分野の知識を
得られる。現代はすべてがどんどん変化する時代、高齢者と言えど、変化に適応
しなければならないが、そのためにはある程度の知識が欠かせない。
 今は時間がかなり自由に使えるが、現役時代には考えられないほど、これほど
一度に勉強したことはかってない。自分の体力だけではなく、夫の状態の変化も
考えて、もしかしたら焦っているのかも知れない。
 まだ物書きとして現役でいるためにも、広く浅くいろいろなジャンルの知識
が必要なのは言うまでもない。でもそれが楽しいからできるのだと思う。
 それにしても、今日は本当に忙しかったが充実した素敵な一日だった。

 

インドと私 2

2015年06月24日 | えっせー
☆ インドに着いて
 カルカッタに着いたのは多分深夜でしたが、空港に降りた途端に、英語
のアナウンスの発音がとても変だったこと、何か独特の匂いが立ち込めて
いたことが第一印象でした。また、なま暖かったことも忘れません。
 一行が外に出ると、インド人の男性達が「ボールペン、ボールペン」と
言って沢山寄って来ました。まだその頃インドではボールペンがないらしく
日本人は沢山持っているので、空港で待っていて要求したようですが、あの
時代は、日本から、計算機などを持ちこみ、地元の人と、物々交換が行わ
れていたようです。添乗員に付き添われ、急いででバスに乗りましたが
辺りは真っ暗で「これから旅が始まるのに、どうなるのだろう?」と、不安
になったのはハッキリ覚えています。真っ暗な街をバスはひた走りました。

 街には信号がなく、交差点にはドラム缶が立っていて、牛車、馬車が
車と一緒に走り、警笛は鳴らし放題で、街は物凄く騒々しい雰囲気でした。
 ガンジス河日の出前の早朝でしたが、船に乗り見学しましたが、広大な
ガンジス河に大きな太陽が昇るさまは、大変荘厳で、私達は感動しました。
 だんだん明るくなるにつれ、河岸の沐浴場では大勢の人が礼拝を
したり、沐浴をしたりしていましたが、中にはうがいをしている人もいて
本当に驚きました。河はかなり急な濁流れで、牛の屍体などいろいろなもの
が沢山流れていて「聖なるガンジス」のイメージとはほど遠く、大変汚く
見えました。河岸には火葬場があり、包帯で包まれた遺体を担いで運んでい
るのを見て恐ろしなりました。また遺体を焼く真っ赤な火も見えて、火葬
する煙がたなびいて、火葬場の写真はとってはいけないと注意されました。
あまりにも衝撃的なことが多く、とにかく驚くことばかりで、臆病で神経質
な私は、いつも緊張してキドキしていて、些細なことで絶えず悲鳴を上げ
ては、みんなに笑われたり、驚かれたりしました。

 またタージマハールは大変美しく立派でした。ニューデリーは大変整然と
してきれいな街でしたが、オールドデリーの街は古くで汚く、人混みがすごく
ごった返していました。ホテル以外では、まったく何も食べなかったのに
お腹をこわした人がだんだん増えてきて、多分旅の後半は参加者の半分位が
そんな状態だったでしょう。そのため、水分の補給だけで、ほとんど食べる
ことができませんでしたが、日本から着いてきた添乗員が、ホテルでおかゆを
炊いてくれ振る舞くれましたが、それが大変美味しかったことも忘れません。
 いつまでもお腹が治らず心配したことも、今でもとてもよく覚えています。
 
 またヨーガの道場は何か所か見学したり、参加したりしましたが、「本場の
ヨーガのレッスンはこうなのだ」と実感しました。
 包帯を飲んで体の中を掃除するでもストレーションもありましたが、私は
恐ろしくて、気持ち悪くて見られませんでした。
 不思議だったのは、どこにいって女性の姿がないことと、地方では見かけな
かったのに、首都のニューデリーでは、何故か男性同士が手を繋いで歩いている
人が多く、とても違和感を持ちました。
 何しろ大昔のことで、記憶をたどりながら書いていますが、どこを歩いて
も「バクシイシー」と、ものもらいに付きまとわれたことが、とても嫌でした。
「私はもう絶対にインドへは来ない」と、その時心に決めました。


「国際ヨーガの日」に際して

2015年06月22日 | えっせー
 ☆ ヨーガ発生の地インドでのイベント
 「国際ヨーガの日」は6月22日で、インドのニューデリーでは、3万
5千人がヨーガを行うイベントをやっていたが、それは圧巻だった。
 さらに世界190カ国以上が、ヨーガのイベントをやったそうだが、ヨーガ
は今では世界中の行事になったと、私は感慨深かった。
 また懐かしいヨーガやヒンズーの聖地リシケシの映像が流れ、ビートルズ
が行って有名になった「シバナンダ、アシュラム」も映し出された。
 私はヨーガの指導をしてから40年以上過ぎたが、もしもダンス教師だけ
でいたら、多分今頃はこの世に存在していないと思うのも実感だ。
 2010年5月から、自分がインドでヨーガの修行したこと20回に
わたり書いたが、それらを手直ししながら、もう一度投稿したいと思った。

 ☆初めてのインドへ旅立つ朝の不思議な体験 1
 初めてめて私がインドへ行ったのはアシスタントが育ち、教室を留守
にしても良い体制になってからですが、それは1978年の12月のこと
でした。指導者として本場インドの道場で学んだり、見学することの必要性
を強く感じたからです。でも(生まれて初めて行く外国がインドなんて)と
思いながらも、催眠法を指導を受け、さられにヨーガ教室も経営していた先生
が企画した「インドヨーガ研修ツアー」に、内心嫌々参加したのです。
 ※ニューデリーの道場で
 

その日の早朝家族四人で食卓を囲み、初めてインドへ旅立つわたしを励ま
してくれました。その朝は今までときときどき家の中で、私は霊感がある
訳ではないのですが、いつも秘密で見ていた守護霊様?(それはユーミンの
大きなポスターの、黒く広い部分に見えた)を見たいと娘に言うと、その
大きなポスターを広げて張ってくれました。
 ※ベナレスガンジス河の沐浴風景
 
すると大変不思議なことに、そこにはいつもの細面の鼻が高い男性ではなく
丸顔でパーマをかけた女性だったのです。
私は大変驚き、それはもしかして、たった一度しか会えなかった、亡くなった
生母ではないかと思いました。その見え方は、丁度白黒写真のネガのよ
うな感じですが、決して鮮明ではありません。でも、私にはその顔がハッキリ
見えたのでが、その黒地のポスターを、指でなぞりながら、「ここは顔の輪郭で
頭はここ、目、鼻」などと説明しても、家族にはまったく見えないようでした。
 多分これは旅立ちの朝に、きっと実母がわたしを励ますために見えたのでは
ないかと思いました。たった一度だけでしたが、不思議な経験でした。
 ※ タージマハール前で記念撮影

※インドの街の様子

 

命の長さの選択

2015年06月22日 | えっせー
 5月に喉頭ガンで亡くなった兄の納骨式を一昨日した。
兄は83歳になってすぐに前立腺のガンが分かり、手術をしたが、それが
転移して喉頭ガンになった。喉が痛くて水も飲めない状態になって、病院
から「胃ろう」を勧められ、私は甥からそれについての相談を受けた。
 以前から「胃ろう」の手術を受けた人の大変さを聞いていたので、「それは
延命治療だし、後がとても大変らしいので、私は賛成はできない」と返事
をした。それから、以前友人から借りて読んで大変感銘し、早速買った

「穏やかな死に医療はいらない」満田緑平著 (朝日新書)を「これを読
んでみて」と、すぐに宅急便で送った。それを聞いて私は兄を病院に見舞
ったが、点滴注射をしているためか以外と元気で「82歳まではとても
元気だったんだけど、83歳になった途端に、色々なガンになった。喉が
痛くてもう水も飲めないんだ」と言うわりにはよくおしゃべりをして
まだ体も痩せてはいなかった。

 その後家族でいろいろ話し合ったようだが、結局「胃ろう」は行わずに
すぐにホスピスに入った。二度目に見舞った時には、すっかり痩せていて
意識も混濁していたようだが、目を開けて私達家族はしっかり分かったようだ。
 少し話をしたけれど、また再び目を閉じたが、私はこれが兄とのお別れだと
思った。「口からものが食べられなければ、生きている証しではないし、楽しく
はないはず」と私は思い、兄の延命処置に反対した。
 でも「これで良かったのだ」と思ったが、そんなことは何も知らなかった
甥夫婦も感謝してくれたようだ。

 兄は元の家族が全員亡くなって、他人から見ると大変壮絶に思えた人生
だったが、でも、再婚して息子二人生まれ、脳梗塞で倒れた妻とも円満で
その長男のやさしい妻、可愛いい盛りの孫達に囲まれて、平和に暮らして
いたようだ。また、亡くなった娘や息子の子供達(男二人、女二人)にも
見送られて旅立ったが、きっと満足できる人生だったと思った。
 自分で命の長さを選択した兄は、きっと幸せだったのだろう。
無論私もそんな岐路に立ったら、延命治療は一切しないで、自分の命の長さ
は自分で決めたいと、大分以前から家族に遺書も書いてある。

 ◆ご紹介した本は大変よい本ですので、興味のある方には、ぜひ推薦
  したいと思っています。


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