ザ・コミュニスト

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バイデン政権の冷戦もどき思考

2021-04-30 | 時評

昨年の大統領選挙と、今年の議事堂乱入事件の混乱を経てバイデン政権が発足し、最初の試運転期間の就任100日を過ぎて、その性格が徐々に浮かび上がってきている。

とはいえ、この間の焦点は圧倒的に現下のコロナ対応にあったため、まだ明瞭な性格はとらえにくいが、そうした中でも、外交面ではロシア/中国への対決姿勢が目立つ。また、多分にして儀礼的ながら、米日同盟再確認・強化の姿勢も見られた。

こうした方向性は冷戦時代を思い起こさせ、どこか1980年代のレーガン‐ブッシュ(父)時代の既視感がある。1973年から2009年まで連続して合衆国上院議員を務めたバイデン氏自身、少壮政治家として冷戦時代の後半期・末期を経験しているので、無理もないだろう。

しかし、現在の世界秩序は冷戦時代とは異なる。再生ロシアはソ連時代とは比較にならないほど縮小され、同盟の盟主でもない。しかも、トランプ前大統領が選挙戦での癒着を疑われたほど、現在のロシアはアメリカ全体にとっての敵国ではなく、むしろプーチンのファッショ的な愛国独裁体制はトランプに乗っ取られた共和党の現行路線ともだぶり、親和的ですらある。

中国はかつてのソ連に代わる超大国として台頭しているように見えるが、しかし、旧ソ連と決定的に異なるのは、現在の中国は事実上の資本主義の道を歩み、世界市場に参入していて、アメリカとは貿易上のライバル関係にあるということである。そして、ロシアと同様、中国も同盟の盟主ではない。

中国とロシアは目下友好的で、共同歩調を取ることが多いとはいえ、互いに束縛されたくないので、運命共同体的な同盟関係を結ぶことはなく、別個の存在であり続けるだろう。

その点、アメリカもまた欧州連合の創設以来、西側盟主としての地位を保持できなくなり、友好的な中でも経済的には欧州連合との競争関係にさらされている。ここでも、欧州連合とアメリカは運命共同的な同盟関係を結ぶことはないだろう。*ただし、欧州連合を脱退したイギリスと、従来の慣例を越えた米英同盟を改めて結ぶかどうかは、今後の注目点である。

内政面でも共和党との超党派的な政治を掲げるバイデン大統領だが、この超党派政治もまた冷戦時代、民主・共和両党の共通敵としてソ連が想定されていた時代の産物であり、上院議員時代のバイデン氏はその超党派政治の象徴でもあったことから、昔懐かしいのかもしれない。

しかし、共通敵・ソ連は消え、かつトランプにより共和党が実質的な白人極右政党と化した現在、もはや超党派政治はかつてのようには機能しないだろう。

前任者と違い、バイデン大統領は好々爺に見えるが、冷戦もどきの時代認識の古さは否めない。トランプを否定するあまりに、アメリカ有権者は冷戦時代の亡霊を呼び戻したようである。これは前進でなく、後退である。

ここには、古典的な二大政党政から脱却できず、常に二大政党政の枠内で無限ループを繰り返し、前進することができないアメリカの深刻な閉塞状況が看て取れる。

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近代革命の社会力学(連載第229回)

2021-04-30 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(3)民族解放戦線の結成と独立宣言
 アルジェリアにおける先住民層の抵抗運動は、前回見たように、フランスによるアルジェリア占領の初期からあったわけであるが、19世紀中の抵抗は、イスラーム宗教指導者や部族指導者を中心とする伝統社会の構造の中から隆起したものであった。
 しかし、20世紀に入ると、先住民層の間でも、次第に近代的な民族意識に根ざす運動が興隆してくる。その最初のものとして、1907年に結成された青年アルジェリア人がある。
 この運動名称は同時代、オスマン・トルコの立憲革命を担った青年トルコ人運動に触発されたものであるが、運動はより穏健で、独立ではなく、先住アルジェリア人にフランス本国の国民議会選挙の投票権など対等な権利を付与するよう求めるものにとどまった。
 1920年代になると、より明確に独立を掲げる民族主義者のメッサリ・ハジが台頭した。彼は当初、フランス共産党と連携しつつ、民族解放運動を開始するが、やがてアルジェリア独立に消極的な共産党との連携を解消し、1930年代に独自にアルジェリア人民党を結党した。
 ハジは基本的に非暴力主義者であり、武装抵抗運動には否定的であった。しかし、フランス当局は、非暴力かどうかを問わず、アルジェリア民族運動には弾圧方針で臨んだため、アルジェリア人民党は非合法化され、ハジも拘束された。
 そうした中、大量のイスラーム教徒の先住アルジェリア人(最大推計3万人)が殺害されたセティフ虐殺が大きな転機となり、1946年に改めてハジを指導者とする民主的自由の勝利ための運動(MTLD)が結成された。これが、アルジェリアにおける民族解放組織の本格的な結成の嚆矢と言える。
 しかし、1947年、MTLD内部ではハジの非暴力路線に懐疑的なグループが組織内組織となるその名も特殊組織(OS)を結成して、武装活動を開始した。これ以後、ハジとOSのせめぎ合いが続くが、それに加えて、ハジの汎アラブ主義的な立場が先住民層の中の少数派であるカビル人を反発させ、民族間の亀裂が生じた。
 そうした路線と民族両面での複雑な組織力学が作動する中、MTLDは当初、アルジェリア地方議会選挙に参加し、46年の選挙では当局の干渉を乗り越えて5議席を獲得するが、48年選挙では全議席を喪失、51年にはOSが非合法化された。
 このような閉塞状況の中、旧OSメンバ―を中心に、本格的な武装抵抗組織の結成を通じた完全な独立への希求が生じた。その結果、1954年4月には団結と行動のための革命委員会が秘密裏に組織された。
 これを最初の革命細胞として、同年7月には各地の独立運動組織を結集した拡大革命会議を経て、武力革命方針が確認された。そのうえで、10月に民族解放戦線(Front de libération nationale:FLN)が結成され、FLNは11月1日に独立宣言を発した。
 FLNは軍事部門として民族解放軍を擁し、戦争を通じて独立を勝ち取ることを目標とする明確な武装革命組織であり、独立宣言は同時にフランスへの宣戦布告でもあり、これ以降、アルジェリアは1962年まで、長い独立戦争に突入する。
 このような紛争事態に至った要因として、フランス当局の頑ななまでのアルジェリア植民地固守の姿勢があったことは間違いなく、その点で、戦後いち早くイギリスとの交渉によって達成されたインド‐パキスタン独立(1947年)との相違が際立った。

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