ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第218回)

2021-04-05 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(4)独立革命の諸相
 インドネシア独立戦争は、そのおよそ4年余りに及ぶ過程の中に、急進的な社会革命を内包していたことから、同時に独立革命でもあったのであるが、革命全体を貫く軸となるイデオロギーは定まっておらず、主として民族主義、共産主義、イスラーム主義の三大勢力が交錯しつつ、共和国中央指導部から統制されない形で、各個的に革命行動に出ていた混沌性が特徴である。
 政体という面では、インドネシアはオランダ植民地時代より1万を越す島嶼から成る群島領域であり、島ごと、または部族ごとに伝統的な首長や部族長が支配する構造であったが、スカルノらの独立派は集権的な共和制を志向していたため、独立戦争中にはこうした首長制の打倒行動が各地で発生した。
 その過程はかなり暴力的でもあり、封建的と名指された人物を襲撃・殺害したり、その一族の女性を性的に暴行するといった生々しい暴力行動も見られ、しばしばそれが革命の名において正当化された。
 中でも1946年3月に東スマトラで発生した革命は、「東スマトラ革命」という別称で呼ばれるほど大規模なものであった。東スマトラでは、当時25あった首長国が急進的な民族主義者のグループによって打倒され、貴族らが大量に処刑された。
 スカルノらの共和国首脳は対オランダ戦争に注力しており、こうした地方レベルでの革命には直接関与していなかったが、オランダ当局は、こうした革命の恐怖から保護するという名目で、各地の首長らをオランダ支持派に取り込み、勢力圏を拡大していった。
 一方、1947年の国連安保理停戦決議に基づき、48年1月に成立した停戦協定(ランヴィル協定)は共和国の領土をジャワ島の一部とマドゥラ島に限局するという妥協的な内容であり、二つの主要勢力の強い反発を惹起した。
 一つは共産党である。共産党は元来、日本軍政下でのスカルノらの親日方針に批判的であったが、停戦協定の妥協的な内容に反発、徹底抗戦を主張して、1948年9月、ジャワ島東部のマディウンで武装蜂起し、インドネシア・ソヴィエト共和国の樹立を宣言した。
 この地方革命は共産党によるスカルノら共和国指導部への反乱という性格を持っており、スカルノらも座視するわけにいかず、軍を投入して反撃し、1か月ほどで鎮圧した。この迅速な行動が共和国指導部は反共的との印象を与え、米英を独立支持に動かす契機ともなった。
 さらに、スカルノらのインドネシア国民党と独立戦争で共闘してきたもう一つの主要勢力であるイスラーム主義者(ダルム・イスラム)も、ランヴィル協定をある種の裏切りとみなし、急進的なイスラーム主義者カルトスウィルヨに率いられ、ジャワ島西部でイスラーム国家の樹立を宣言した。
 ダルル・イスラムはインドネシアをシャリーア法に基づく神権国家とすることを目指しており、スカルノらの世俗的共和主義の思想とは相容れなかったが、当時独立戦争に注力していた共和国指導部はダルル・イスラムに対処する余力なく、かれらのイスラーム国家は1949年末のインドネシア共和国の正式な独立をはさみ、1962年の掃討作戦で壊滅されるまで、事実上の分離国家として存続していくこととなる。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第10回)

2021-04-04 | 南アフリカ憲法照覧

情報へのアクセス

第32条

1 何人も、以下の情報を得る権利を有する。

(a) 国が保有するあらゆる情報

(b) あらゆる権利の行使または保護に必要とされる他人が保有するあらゆる情報

2 この権利を実効化するため、国の法律が制定されなければならず、その法律は国の行政的及び財政的な負担を軽減するための合理的な手段を提供するものとする。

 本条から第34条までは、個人の法益のために、公権力の何らかの行動を要求する受益権の規定であるが、筆頭は情報公開請求権である。簡単な規定であるが、国に対しては全面的に、私人に対しても一定範囲の情報開示を請求できる包括的な規定である。

公正な行政行為

第33条

1 何人も、合法的で、合理的かつ手続き的に公正な行政行為を求める権利を有する。

2 行政行為によってその権利に不利な影響を受けるすべての人は、書面で理由を示される権利を有する。

3 これらの権利を実効化するため、国の法律が制定されなければならず、その法律は次のようなものでなければならない。

(a) 裁判所、または必要に応じて独立かつ公平な審判所による行政行為の審査を提供すること。

(b) 第1項及び第2項の権利を実効化する義務を国に課すこと。

(c) 効率的な行政を推進すること。

 本条は公正な行政行為を求める権利の規定である。第2項によれば、不利な行政行為を受ける場合は書面による理由の開示を要求することができる。これは、前条の情報開示請求権の補充規定でもある。第3項a号の行政行為に関する司法審査は、次条の裁判を受ける権利の先取り的な特則となっている。

裁判を受ける権利

第34条

何人も、あらゆる紛争について、裁判所、または必要に応じてその他の独立かつ公平な審判所もしくは審査会における公開の聴聞で決定される法の適用によって解決される権利を有する。

 公開裁判を受ける権利の規定であるが、狭義の裁判所に限らず、必要に応じて独立かつ公平な準裁判機関による審査を受ける権利も含まれている。

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近代革命の社会力学(連載第217回)

2021-04-02 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(3)独立宣言から独立戦争へ
 日本軍政下のインドネシアで独立への流れが明確に生じたのは、大戦も末期の1944年9月、当時の小磯國昭首相によるインドネシア独立容認声明(小磯声明)が直接の契機であった。当時の日本はサイパン陥落で敗色が強まり、実質的な戦争指導内閣であった東条内閣が総辞職した直後であった。
 こうした中で、日本としてはインドネシアの良好な対日感情を保持し、反乱を防止しつつ、近い将来の撤退も視野に入れて、独立を公式に容認する方向に動いたものと見られる。ただし、それは日本支配層の総意ではなく、独立を時期尚早と見る向きもあったことは否定できない。
 ともあれ、小磯声明はスカルノら民族独立派にとっては決定的なゴーサインとなり、これを受けて、1945年には独立準備調査会が設立され、建国に向けて憲法草案などが討議された。続いて、スカルノを委員長とする事実上の自治機構である独立準備委員会(以下、準備委員会)が立ち上げられた。
 しかし、ここで日本の無条件降伏という事態の急転があり、準備委員会は後ろ盾の日本を失うこととなった。そこで、準備委員会は日本の無条件降伏直後の45年8月17日、一方的な独立宣言に踏み切る。奇しくも、ベトナムでホー・チ・ミンらの独立同盟会によるハノイ蜂起が開始された同日であった。
 この独立宣言自体は日本敗戦後の権力の空白を利用して行われたもので、インドネシア共和国樹立を宣するある種の無血革命であったが、スカルノらは日本軍に代わって進駐してきたイギリスやオランダとの武力衝突を予期して、10月には旧郷土防衛義勇軍を主な母体として、事実上の国軍となる人民防衛軍を結成した。
 しかし、自前の武器をほとんど持たなかったため、ジャワ島スマランで、まだ残留している日本軍に必要な武器の引き渡しを要求したのに対し、日本軍側がこれを拒否したことで武力衝突に発展し、インドネシア側に2000人ほどの死者を出した。このスマラン事件は、インドネシア独立過程でほぼ唯一発生した日本との交戦事案であった。
 オランダは当初、新生インドネシア共和国(以下、共和国)を連邦に編入する形で取り込み支配圏を維持することを企図し、1946年には一度は協定が締結されるも、批准前にオランダ自身がこれを破り、軍事行動を開始したことで、全面的な戦争に発展した。
 当然ながら、人民防衛軍を継承し、いまだ民兵組織の域を出ない新生インドネシア軍とオランダ軍とでは物量的に格差があり、共和国は都市を放棄し、農村部に拠点を置くゲリラ戦で対抗するほかなかった。ここでも、ベトナムと同様、独立宣言後にレジスタンスが開始されるという経緯を辿っている。
 このインドネシア独立戦争は、1947年8月の国際連合安全保障理事会決議に基づく停戦協定(ランヴィル協定)までの第一期と、停戦が破られた後、オランダ軍の新たな大攻勢が開始された1948年12月からの第二期に分けられる。この第二期では、共和国の臨時首都ジョグジャカルタが陥落、スカルノ大統領ら共和国首脳の大半が拘束され、共和国は崩壊したかに思われた。
 ところが、ここで国際社会の力学が共和国有利に働き、1949年12月には国連安保理が共和国首脳の釈放を要求する決議を採択、さらにはアメリカが戦後復興中でもあったオランダへの経済援助停止を通告し、圧力をかけたことで、局面は大きく転換する。
 同時並行で続いていたベトナムの独立戦争である第一次インドシナ戦争に先んじて戦争終結の機運が生じたのは、インドネシアでは共産党が主導しておらず、スカルノら非共産系の民族主義派が主導していたことが米英主導の国際社会で好感されたためもあったであろう。
 こうして外圧に屈したオランダはついにインドネシア奪回を断念し、スカルノらを釈放、1949年8月から11月までハーグにて円卓会議を開催し、最終的にインドネシアの独立を容認することで合意に達した。その結果、同年12月、改めてインドネシア共和国が正式に発足することとなった。

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香港の皮肉な逆説

2021-04-01 | 時評

3月30日、中国当局が香港における選挙制度を改変し、立法会(議会)の直接選挙枠を定数の約2割に縮小すること、行政長官を選ぶ選挙委員会がすべての立法会議員候補を指名すること、治安機関も加わって候補者の資格を審査することなどを柱とする新制度を創設した。

これによって、中央政府が忌避する人物の立候補は制度的に排除されることとなり、中央政府の宿願どおり、香港を中央政府の完全な統制下に置くことが可能となる。これは、1997年の返還以来、香港にとって画期となる新段階である。

振り返れば、香港では長い英国植民統治の末期に、英国モデルの直接選挙による議会制度が遅ればせながら限定的に導入され、返還直前に、言わば置き土産のような形で直接選挙枠を拡大して中国政府に引き渡された。

中国政府は返還交渉に際して、50年間の現状維持(いわゆる一国二制度)を公約したとはいえ、わざとらしい置き土産の英国モデルには初めから反発を示していた。

その後の対処としては、香港でも共産党を組織し、立法会選挙に参加する方法と、中央政府の代理政党を通じて立法会を間接的に統制する方法の二つがあり得たところ、中国政府は後者を選択した。前者を選択して、もし共産党が惨敗することがあれば、体面を失うからであろう。

しばらくは、このような間接統治が機能していたが、近年、主として返還後に生まれた青年層を主体とする民主化運動の高揚に直面し、少なくとも政治制度面では公約の実質的な修正に踏み切ったものと見られる。

おそらく、中国政府としては「現状維持」公約の期限である返還50周年(2047年)を迎える前に、香港をシンガポールのような政治的に厳しく統制された資本主義都市として再編したい考えであろう。そうしておけば、50周年を待って現状を変更し、正式に共産党統治下に編入しやすくなるからである。

かくして、不当な植民地支配下で種をまかれた香港の民主主義が、正当な返還後、本土並みの全体主義へ移行しようとしているのである。ここには、歴史の皮肉な逆説がある。英国モデルの議会制を求める若い民主運動家にとっては、かれらが知らない英国植民地時代のほうがよかったということになりかねない。

ただ、共産党支配下の中国へ返還された以上、いつかこうなることは必然だったと冷めた見方をすることもできる。中共が、香港に「民主主義特区」を許すとは考えられない。そうした特別扱いは、本土にも民主化運動を伝染させることになりかねないからである。

一方、民主化運動にとっては冬の時代となるが、それはチャンスでもある。英国モデルが民主主義の到達点なのではない。立法会から締め出されることで、民衆会議のような新しい民主的対抗権力の創設への道も拓かれるからである。香港青年層の真剣さと柔軟さに期待したい。

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