波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

        思いつくままに        

2010-09-08 09:36:59 | Weblog
「データー持ってきて」「無理っす。」ある職場での会話である。この話を聞いた時に自分のサラリーマン時代を思い出し、こんな会話が想像できないことであったことと同時にそこには言葉に気持ちを込める感情交換の面の無い場面が増えつつあることを感じた。
(自分自身の経験ではあまり無かったことで想像もつきにくいのだが)ある店に行って品物を物色して自分のサイズに合うものが無いか店員に聞いたところ、(在庫は)ありませんと誠にそっけない答えに買う意欲も無くなり、店を出たという話も聞く。これが現代であり、つまり目的の無い会話は不必要であり、無駄という考えなのだろうか。識者による解説でも「パソコンや携帯の普及で早く効率的な時代になってきたけど、その分自分自身の考えが減ってきて、自分を楽しむ感情すら分らなくなっているのだろうか。」という。
この事を良い、悪いと言う気もないが、毎日の生活の中でこんな味気ない日々を過ごしていることの淋しさを思わざるを得ない。長いようで、短い人生であり、一日の時間も長いようで短く、考えようでは睡眠時間や、雑用時間を除くと、自分の意思で自分の出来る時間はほんの僅かな時間しかないことに気付くはずである。その時間をどう使い、どう自分の時間とするか、それは自分次第なのである。私は最近(9月になってからだが)毎日の日記の最後に一日を振り返り、「小さな幸せ、喜びの発見」というコーナーを設けて其処に一日のうちでどんな些細なことでも良い、自分の心の琴線に触れたことを書くことにしている。
例えば、「夏休みが終わり、新学期が始まり孫達が元気に通学を始めたとの電話を受けた。」「脳炎を患っている弟と電話で話が出来た」とか言うものである。人が聞けばくだらない、そんなことかと思われ、なんでもない事柄である。しかし、私自身にとってはかけがいのないその日の喜びの発見であり、幸せなのである。
その積み重ねの中に人生の尊さと生かされている意味を知ることが出来る気がするのだ。
我が家の夏野菜と花もようやく終わりを告げた。とまと、きゅーり、なす、そしておくらと随分収穫をえて、楽しむ事が出来た。花も朝顔、風船かつら、コスモス、ミニひまわりと
咲いて水をやりながら、毎日癒されてきた。今日は一ヶ月ぶりの雨を見る。
初めての猛暑の夏をやり過ごし、これから少し落ち着いて日々をじっくりと味わうことが出来るかと楽しみにしている。