波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

      思いつくままに

2012-10-16 09:10:06 | Weblog
人は自分の幸せを願うとき、良く「神のご利益」を考えて神社のお参り他様々な行事や行いをしながら願う事が多い。そして
不幸に会うとそれまで考えた事もない過去の全てが取りざたされてその業の所為で報いがあった(因果応報)と考えがちで
そこからその人の人生が大きく左右される事も多いと聞く。
しかし真の神を信じて神に全てを委ねて祈る事はそんな事とは全く別のこととなる。
それは子供が病気になって医者に連れて行き、どんなに嫌がっても注射をしたり苦い薬を飲ませたり、特別なときには大きな手術を受けさせる事と同じでそれは子供にとって意味も分からずただ痛い、いやだと思うだけであって、身体のことなど考えていないが、神の計画や思いもこの親と子の関係に似ていて、神の思いは人間に理解されないでいる事が多いのではないだろうか。
「真実である事、気高い事、全て正しい事、全て清い事、全て愛すべき事、全て名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」この言葉はこれらの人間の幸せにつながる鍵となる言葉として考えられる。
考えようによってはこれらの事は当たり前のことで、別に特別なことではないとすれば簡単だが日常の生活において日々起こる出来事を通じて、この言葉どおりに実行しようとすると難しい事である。
安易に日々を過ごしていると私たちは真実から遠ざかり、見栄、流行、世間体などを含んだ自己中心的な言動の中で適当に生きている事になる。此処に書かれている言葉を真剣に理解し、この言葉どおりに生きようとすれば、それは実際の幸福とは異なり、
表面的には残酷な事であったり、苦しみであったり、惨めな目にあうことであったり恥ずかしい事に会う事であって必ずしも
幸福とは見えない事になるかもしれない。
例えば尊敬はするけど人間的には好きになれないと思う人がいても、どこか一つその人の美点を見つけて付き合うことが出来るようになるとか、(難しい事だが)もしそれが出来るようになれば自分が幸せにつながる事になると考えられないだろうか。
要はどんな場面におかれても「いつも喜ぶ」(感情的ではなく心因的に)心を持てるか、どうかが鍵となるのではないかと考える。いやなことはいやで嫌いなものは嫌いのままで、苦しい事は苦しく重荷は重荷のままで現実は動いている。
その中にあってそうであればこそ「いつも喜ぶ」事ができるか、どうかがその人に幸せを覚えさせるか、どうかになり、最後に心の平安を与えるかどうかになるのではないだろうか。

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