J-Blueの雑記帳(近場を歩く)

此のBlogを雑記帳代わりにと始めました。最近はハイキング・旅行等の写真を中心に記録性を高めた内容と編集にして居ます。

「街の木々達」

2006年02月10日 | その他随筆
 先に書いた、近所の鉄筋3階建て建物の解体に伴って、其処に育って居た
木々達が、全て切り倒されてしまった。
中には樹齢70~80年程の立派なケヤキの大木も数本在った、桜なども同じ様な
樹齢で在ったが切り倒されていた、毎年立派な花を咲かせるソメイヨシノだった。

 建物を解体して更地にし、その後に又3階建てのマンションを建てる様だ。
パースを(想像図)を見ると、又同じように植栽としてケヤキ等を植える様だ。
いとも簡単に大木を切ってしまう、その切られる様子を見ていると、痛々しく自分の
身を切られる想いだ。

 この話とは別に矢張り近所で在った事だが、一番悲しかったのは数年前、樹齢
100年程にも成ろうかと言うソメイヨシノと柳が交互に育って居る100メートル程
の並木の木を全て切り倒してしまった時だった。
毎春になるとソメイヨシノの花が満開になり、見事な景観を作ってくれた。其処は
元農地で2千坪近くも在り駐車場になっていたが、アッという間に更地になりマン
ションが出来てしまった。
柳の大木も今では滅多に見られなくなって仕舞った、切られた柳は幹の根元の直径
が1メートル程も有っただろうか・・・・・桜もそれに負けない程の太さだった。

 人間の経済活動の為に邪魔な「木々」は何の躊躇いもなく切り倒されて行く・・・
木は生き物であっても、動かないし何も言わない、その寿命の長さから云って人間
の感じる時間軸と、木々達が持っている時間軸が全く違う。
人間はそうした「木」が生き物である事を忘れているのでは無いかと思う瞬間だ。
確かに自然林では無い都会の木は人間の「手」に依って植えられ、育ったかも知れ
ない、いわば動物で云えば家畜と同じかも知れない「煮て食おうと焼いて食おうと」
飼育者の自由かも知れない、でも其れは経済的側面だけ、植林等は純粋に「木」の
家畜化、ただそのスパンがとてつもなく長いだけ。

 でもそんな「木々達」でも、意志を待って生きているのでは無いかと思う時が在るの
です。
元々其処にあった「木」に接する様に鉄骨の柵を作ったりした時、何十年もするとその
「木」は鉄骨の柵を「食う」様に幹が柵を包み込んで行きます。或いは日陰に成って
仕舞った枝が日が経つにつれ、次第に曲がって行く、等々物理現象からすれば木の
性質から当たり前とも云えるかも知れません。
でも其れだけで片づけて良い物かどうか?・・・・なにせ人間の感じる時間のスパンと
「木」の感じているで有ろう時間のスパンが違いすぎるのです。