く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<日南・油津商店街> 寂れた〝シャッター商店街〟が3年余で大変身!

2016年08月05日 | メモ

【多世代交流の街づくりへ一丸、「はばたく商店街30選」にも】

 〝シャッター通り〟〝シャッター商店街〟という言葉が生まれたのは今から何十年前だろうか。地方都市の商店街の疲弊ぶりを端的に表現しているが、各地の商店街はなお加速度的に崩壊への道を辿っているように見える。そんな中、3年という短期間に劇的な変貌を遂げて、全国の注目を集める商店街がある。宮崎県日南市の「油津(あぶらつ)商店街」。この5月には中小企業庁の「はばたく商店街30選」にも選ばれた。

 旗振り役は福岡県出身の木藤亮太さん(41)。街づくりに関する企画・計画などを専門とする〝地域再生請負人〟だ。3年前、日南市は「月給90万円」「採用後は日南市に居住」「4年間で20店のテナント誘致」という条件で全国から人材を募集した。木藤さんは公開プレゼンテーションで「自走できる商店街づくり」を熱く訴えかけ、応募者333人の中から選ばれた。肩書は「日南市テナントミックスサポートマネージャー(通称サポマネ)。任期は2013年7月から17年3月末まで。木藤さんは採用直後、家族全員で日南市に移住した。

 木藤さんの就任は宮崎県内で大きなニュースとなり一部の全国紙にも取り上げられた。商店街はこの3年でどう変わったのだろうか。南九州への旅行を機に商店街を訪ねた。木藤さんは関西出張中ということでお会いできなかったが、代わりにSさんが案内してくれた。木藤さんの義父に当たる。日南在住ではないが、この3年間、商店街の変化をつぶさに見てきた。当時の商店街は人通りが少なく空き店舗だらけ。まさにシャッター商店街だった。「この疲弊した商店街を一体どうやって立て直すのだろうか」。Sさんは期待と不安が交錯する当時の心境をこう振り返った。後日、木藤さんからも「ご参考に」とインタビュー記事などが送信されてきた。

 

 Sさんが最初に案内してくれたのは再生1号店となった喫茶店「ABURATSU COFFEE」。L字形のアーケードで結ばれる油津商店街は国道222号側の入り口に百貨店の「日南山形屋」がある。この喫茶店はもう一方の入り口に位置する。木藤さん就任翌年の2014年11月に開店した。蘇ったかつての名店喫茶は多くの世代が集い、新しい街づくりについて話し合う場となった。2号店はその隣の呉服店跡に「二代目湯浅豆腐店」。そして3号店「手羽先番町」の出店と続く。その過程で木藤さんたちは商店街の企画・イベントを継続的に行う民間組織「株式会社油津応援団」も立ち上げた。活動の中心スタッフは全員地元の若者たちだ。

 昨年11月にはスーパーの跡地に中核施設が相次いで開業した。中庭風のオープンテラスを挟んで、飲食スペースの「あぶらつ食堂」と多世代交流モール「油津Yotten」(よってん=宮崎弁で「寄ってよ」)。食堂は和洋中華や焼き鳥店など5店が入店し、店内を飫肥杉の長い1本のカウンター(約20m)が貫く。店の移動は自由、料理の注文もどの店からもOKだ。Yottenは子どもやママ世代が集う無料スペースと、低料金で様々なイベントに活用できる有料スペースから成る。

 日南市は半世紀以上前からプロ野球広島東洋カープのキャンプ地になっている。選手たちの定宿のホテルも油津商店街の目と鼻の先。そこでYottenの一角には、選手と地域住民、来街者らが交流を深める拠点として「油津カープ館」も開設した。市民から寄せられたカープ選手たちの思い出の写真や秘蔵グッズなどを展示しており、今年2月には松田元オーナーも訪れた。アーケードを挟んで向かい側の空地には昨年12月、おしゃれなコンテナの店(手作りパン、スイーツ、まつ毛エクステ専門店など6店)が並ぶ「ABURATSU GARDEN」もできた。商店街の空き店舗にはこれまでにIT(情報技術)企業3社も入居したという。これらの施設を案内するSさんの表情は、まるで自分が手掛けたかのように誇らしげだった。

 

 油津応援団を中心に様々なイベントの開催などソフト面にも力を注ぐ。7月の「土曜夜市」の復活はその1つ。かつて近隣から多くのお客さんを呼び寄せていた油津の名物催事だ。昨年3週連続だった夜市を、今年は5週連続に拡大した。その運営には地元の中高生や専門学校生、大学生などの若者が積極的に携わる。空き店舗を活用した「おばけ屋敷」は中高生、「商店街脱出ゲーム」は高校生が中心になって企画した。油津Yottenでは8月にワークショップ祭として「夏休み宿題おたすけ塾」なども開く。

 商店街の一角ではいま大規模な開発事業が進行中。日南市と民間業者が出資した第三セクター「日南まちづくり株式会社」による複合機能ビル「ふれあいタウン」の建設と、立体駐車場などになる「岩崎3丁目優良建築物等整備事業」。ふれあいタウンは8階建てで、今年12月には完成の予定だ。1~3階には子育て支援センターや商業・医療施設、4階以上はケア付き高齢者住宅や一般分譲住宅が入る。これらの施設が完成すると、商店街の集客力はより高まると期待されている。

 地域活性化に不可欠な人材としてよく挙げられるのが「よそ者・ばか者・若者」。第三者の視点、誰に何と言われようが一心不乱に取り組む姿勢、そして若い力だ。油津商店街はそれらの力がうまく結集し、「商店街に行ったら何か楽しいことがありそう」と期待する多くの人たちを引き付け始めた。木藤さんが目指すのもそんな空気感やワクワク感という。通行量は3年前に比べると2~2.5倍になったと推測されている。最近では各地の自治体などの視察も相次ぐ。錆付き軋み止まりかけた大きな歯車が、潤滑油ときめ細かいメンテナンスで再び始動を開始――。油津商店街の現況を例えれば、こんなところだろうか。木藤さんの任期は残り8カ月。総仕上げとして、木藤さんが日南を離れても「自走できる商店街づくり」への挑戦が続く。

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<服部植物研究所> 世界的コケ博士が故郷の宮崎・飫肥に設立して70周年

2016年08月04日 | メモ

【ナンジャモンジャゴケ研究の第一人者、内外の標本約47万点を所蔵】

 「ナンジャモンジャ」と呼ばれる樹木がある。純白の花が雪のように樹冠を覆うヒトツバタゴ(モクセイ科)。その別称として使われることが多いが、このナンジャモンジャが正真正銘の和名になっている植物がある。「ナンジャモンジャゴケ」。このコケの研究で世界的に名を馳せたコケ博士、服部新佐(1915~92)が故郷、宮崎県日南市飫肥(おび)に創設した公益財団法人「服部植物研究所」が今年設立70周年を迎えた。飫肥の城下町散策を機に、無料公開中の同研究所を訪ねた。

 

 ナンジャモンジャゴケは20世紀コケ学界の最大の発見ともいわれる。その標本が最初に服部博士の元に持ち込まれたのは研究所設立(1946年)から5年余り経った1951年のこと。当時名古屋大学教授だった高木典雄博士が北アルプスの五竜岳(長野県)で採集した。服部博士の専門は蘚苔(コケ)植物だが、既存のコケ類と全く異なる形態だったため判断がつきかね、藻類や菌類、シダ類などの専門家にも問い合わせた。それでも分からなかったため、服部博士は「ナンジャモンジャゴケ」という仮称を付けて標本庫にしまった。その後、同研究所研究員などの調査や研究でようやく1科1属1種の新種と判明、58年に発表に至った。 

 ナンジャモンジャゴケは高さが1cm程度で、造卵器が保護器官で守られていないなど原始的な特徴を持つ。冷涼な地域に生息し、日本や台湾、ヒマラヤなど北半球の高地に隔離分布しているのが特徴という。雄株は未発見だが、恐らく既に絶滅してしまったと考えられているそうだ。世界共通のナンジャモンジャゴケの学名は「Takakia lepidozioides」。第一発見者の高木博士の名前に因むものだが、服部博士は生前、学名も「Nanjyamonjya takakii」にしてもらいたかったと繰り返し残念がっていたという。当時の東京大学の研究者らに「神聖な学名にそんなふざけた名前をつけるのはけしからん」と反対されたそうだ。

 

  同研究所は国内外の標本約47万点を所蔵し、コケ類関係の蔵書も3万点近くに及ぶ。研究員は専任・兼任合わせて10人余。年末年始やお盆などの休館日を除いて一般公開しており、顕微鏡でナンジャモンジャゴケをはじめ様々なコケ類を観察できるほか、DVD映像『世界的なコケ博士服部新佐』の放映、コケ類や地衣類に関する書籍・資料の展示なども行っている。30倍の顕微鏡を覗いていると、乾燥し仮死状態で横たわっていたスナゴケが、霧吹きをシュッと吹きかけるやいなや、一斉に立ち上がって美しい緑色に。コケの生命力の神秘を実感する瞬間だった。

 「飫肥には世界的なコケの研究所がある」。服部植物研究所に立ち寄ったのは案内者のこの一言に、かねてコケに関心があるという同行者が「ぜひ連れていって」と答えたことから。研究所は飫肥のメーンストリートに面した2階建てのモダンな洋風建築だった。突然の訪問にもかかわらず、女性職員が丁寧に分かりやすく説明してくれた。「奈良から」と言うと、その女性も実家が奈良県とのこと。しかも偶然にも最寄りの駅まで同じだった。不思議な縁を感じる、忘れがたい訪問となった。

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<シマヒギリ(島緋桐)> 南国っぽい鮮やかな緋色の円錐花序

2016年08月03日 | 花の四季

【東南アジア原産、別名「カクバ(角葉)ヒギリ」】

 シソ科クサギ属(クレロデンドルム属)の常緑樹。和名の由来は「島(沖縄産)のヒギリ」からともいわれるが、原産地は台湾~東南アジアで、沖縄にはもともと自生していない。ただ沖縄で古くから栽培されてきたのは間違いないようだ。ヒギリ(別名トウギリ=唐桐)の「緋」は鮮やかな花の緋色から。「桐」は艶のある濃緑色の大きな葉の形がキリに似ているところからの命名だが、もちろんキリの仲間ではない。

 花期は5~9月。長さが30cm前後もある大きな円錐状の集散花序に、1~1.5cmほどの小さな花を多数付ける。長い雄しべ4本が花弁から飛び出す。葉は長さが15~20cmほどあり、3~5裂の浅い切れ込みが入ることが多い。全体的にやや角ばっていることから「カクバ(角葉)ヒギリ」とも呼ばれる。地下茎を伸ばして新芽を出すため群生することが多い。

 ヒギリの花によく似るが、ヒギリより花序が大きいうえ、きれいな円錐状になって段咲きするのが特徴。英名は「パゴダ・フラワー」。パゴダはミャンマー式の仏塔で、円錐形の花序をパゴダに見立てた。学名「クレロデンドルム・パニキュラータム」の種小名パニキュラータムも「円錐花序の」を意味する。

 ヒギリの学名は「クレロデンドルム・ヤポニクム」。種小名は「日本の」を意味するが、原産地は中国南部からインドにかけた地域といわれる。江戸前期の園芸書『花壇地錦抄』(1695年、伊藤三之丞著)にも登場しており、日本への渡来はかなり古い。一方、シマヒギリの渡来時期は不詳。ヒギリ、シマヒギリによく似たものにジャワ島原産のジャワヒギリがある。(写真は宮崎県日南市飫肥の国際交流センター「小村記念館」で)

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<粉河祭> 2年ぶりに渡御式、古式ゆかしい総勢400人余の大行列!

2016年08月02日 | 祭り

【無数の竹ひごで覆われただんじりも風情たっぷり】

 紀州三大祭の1つといわれる粉河祭の本祭が7月31日、和歌山県紀の川市粉河のメーンストリート「粉河とんまか通り」で華やかに繰り広げられた。この祭りは西国三十三所第三番札所粉河寺の鎮守、粉河産土(うぶすな)神社の祭礼。和歌山県の無形民俗文化財に指定されている。本祭の中心行事「渡御式(お渡り)」は2年に1度の開催で、裃(かみしも)姿や馬にまたがった武者姿の稚児ら古式ゆかしい総勢400人余の大行列が練り歩き、だんじり6台が後に続いた。

 祭りの歴史は古く、700年近く前の1344年(康永3年)の古文書に記されているという。渡御式は粉河寺を創建した大伴孔子古(おおとものくじこ)の子、船主(ふなぬし)が奥州征伐に向かい賊徒を退治して凱旋した時の模様を再現したものといわれる。行列は午後4時、粉河寺本堂裏手にある同神社を出発、粉河寺大門橋を渡って沿道を見物客が埋め尽くすとんまか通りを下った。お渡りにはかつて粉河寺領だった来栖村(和歌山市東部)からも参加し、馬上の稚児の笠からは顔を隠すように無数の紙垂(しで)が垂れ下がっていた。

 

 

  だんじりは屋台の上に立てられた灯明台のてっぺんから「ひげこ」と呼ばれる百本ほどの竹ひごが弧を描いてだんじり全体を覆う。軽快な太鼓と鉦(かね)のお囃子に合わせて曳かれるだんじりは優雅で風情たっぷり。屋台の四方を飾る武者姿の刺繍などの引き幕も豪華絢爛で、それだけでも一見の価値があるものだった。

  だんじりはかつて15台あったようだが、この日の本祭では6台がお渡りに追随し、他に1台が飾り付けられて通りの一角に据え置かれていた。法被姿の関係者の1人は「年々曳き手が少なくなって……」と今後を憂えていた。祭本部前では各だんじりが到着するたびに屋台の上から餅まきが行われた。渡御式に先駆けて、だんじり囃子の奉納や「子どもだんじり」の曳き回し、粉河中学校吹奏学部の演奏などもあった。

 

 

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