く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ムジークフェストなら①> 「奈良の俊英ソリスト達」フレッシュな演奏を披露!

2013年06月16日 | 音楽

【バイオリンの伊東真奈さん・小川響子さんとチェロの伊東裕さん】

 「奈良の俊英ソリスト達」と題したクラシック演奏会が15日、奈良県文化会館国際ホールで開かれた。前日の14日に開幕した「ムジークフェストなら2013」(30日まで)のメーンコンサートの1つ。この日のために特別に結成された弦楽合奏団をバックに、地元奈良県出身の若手演奏家3人がはつらつとした演奏を披露した。

   

 合奏団の構成は女性主体の20人余だが、数少ない男性陣の中には奈良出身で東京交響楽団首席チェロ奏者の西谷(にしや)牧人さんも含まれていた。演奏会は合奏団指揮者・澤和樹さん(東京芸大教授、なら国際音楽アカデミー音楽監督)によるバッハ「G線上のアリア」のバイオリン演奏からスタートした。使用したバイオリンは東日本大震災の被災流木を使って、世界的なバイオリン製作者・中沢宗幸さんが作ったもの。裏板には「奇跡の1本松」の絵が描かれており、内外のバイオリニスト1000人を目標に各地でリレー演奏されている。

 この後、芥川也寸志作曲の「弦楽のための三楽章(トリプティク)」に続き、バッハの「二つのバイオリンのための協奏曲」で若手バイオリニスト2人が登場した。伊東真奈さん(写真㊧)と小川響子さん(㊥)。2人とも数々のコンクールで上位入賞を果たしており、将来を嘱望されている。演奏曲は2つのバイオリンの〝対話〟が聴きどころだが、2人の呼吸もよく合って、それを合奏団がしっかり支えていた。

 シューマンの「チェロ協奏曲」では東京芸大2年在学中の伊東裕さん(写真㊨)が熱演を披露してくれた。伊東真奈さんの弟で、第77回日本音楽コンクール1位と実力は折り紙付き。合奏団に特別参加した西谷さんは県立奈良高校―東京芸大の先輩でもある。西谷さんも後輩が同じチェリストの道を邁進しているのを自らのことのように喜んでいるに違いない。

 最後の曲目は今年がちょうど生誕100年の英国の作曲家ブリテンの「シンプルシンフォニー」。第2楽章のピッチカートの歯切れの良さと、第3楽章の叙情的な旋律を豊かな音量で奏でた演奏が印象に残った。アンコールは同じ英国の作曲家ジョン・ラターの「弦楽のための組曲」第3楽章。指揮者澤和樹さんが再び〝1本松バイオリン〟を使って哀愁を帯びたメロディーを繊細に奏でた。心に染みる音色だった。

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<なぜ中国人とトラブルのか> 「日常的な接触が増加 偏向報道も一因」!

2013年06月15日 | メモ

【大阪自由大学で河合研究員「互いの文化的差異を意識し相互理解を」】

 ある世論調査で「嫌い」な国として中国を挙げる日本人が76%にも上った。なぜマイナスイメージが先行しているのか。キャンパスポート大阪(大阪・梅田)で14日「なぜ日本人は中国人とトラブルのか―文化人類学の視点から」をテーマに大阪自由大学の講座が開かれた。民博連続講座「〝斜界学〟のススメ」の第3弾。講師の河合洋尚・国立民族学博物館機関研究員(写真)は「相互理解の欠如が大きな原因。互いの文化的差異を意識し、譲歩していくことが必要」などと述べた。

  

 河合氏は関西学院大学社会学部卒で、東京都立大学大学院で社会人類学を専攻。2004年から中国の大学で博士研究生や講師などとして通算7年間を中国で過ごした。現在も中国嘉応大学客家研究所客員教授を務める。日本の25倍の国土に56の民族を抱える中国。多くの中国人と接してきた経験から「実に多様で〝中国人は○○〟とひとくくりにはできない」と話す。

 最近の中国イメージの悪化については「儒教や道教、共産党の1党支配、カンフーや辮髪などから受ける奇異なイメージに加え、日常的な接触によるトラブルの増加がその背景にある」と指摘する。2011年度の訪日外国人は中国・台湾・香港・シンガポールを合わせた中国系が全体の40.5%を占めた。日本人の海外渡航先でも1700万人のうち中国が398万人で1位(いずれも「観光白書」から)。日系企業の駐在員や日中双方の留学生も増え、接触する機会が増えてきた。

 日常的な接触によるトラブルは「その多くが文化摩擦に起因する。いわば自民族中心主義的な基準から他民族である中国人の行動を判断することによって摩擦が生じている」とみる。その具体的な事例として食事や公共マナーなど10のケースを取り上げた。事例①「いろいろしてあげたのに〝ありがとう〟の一言もない」。日本人のこんな不満については、「中国人は親しくなったら〝謝謝〟とあまり言わない。言い過ぎると逆に関係が遠い人とみられる」そうだ。

 事例②「初対面なのに呼び捨てにされたり、年下から〝君づけ〟で呼ばれたりする」。河合氏本人も最初は「何だ!」と思ったが、「敬称をつけるとよそよそしく垣根をつくるため、初めから呼び捨てにすることはよくあること」。事例③「せっかく食事を作ってあげたのに食べない」。中国では火を通していない生ものを口にする習慣がなく、食事の組み合わせも大切という。「中国人をラーメン店に連れて行き、セットメニューを頼むと嫌がる。ラーメンもチャーハンもギョーザも中国人にとっては主食だから」。

 事例④「中国人が水着で温泉に入ってきた」。中国では全裸で温泉に入る習慣はないという。事例⑤「中国人観光客はホテルでとにかくうるさいし、順番を守らない」。河合氏は公共意識がまだ十分でないことを認めながらも「中国人にはにぎやかなのはいいことという思いが強い」と指摘する。だけど「郷に入っては郷に従って」ほしい気もするなあ。事例⑥「社員が副業する、すぐ辞める、会社のものを使い込む」。中国の人間関係は家族中心で、次いで友人、そして企業の順番。「日本の企業文化は必ずしも通用しないと意識する必要がある」。

 河合氏は中国イメージ悪化の背景には「マスメディアの偏向報道もある」と指摘する。「よく中国を知る人の中には最近の報道に苦笑している人も多い」。さらに「中国について何も知らない人ほど中国を快く思っていない傾向が強い」とも話す。今後の課題として①中国の社会、文化に関する知識を増やし、互いの差異を意識し譲歩していく②偏向報道に警鐘を鳴らし別の角度から中国を捉える目を養う③草の根の交流を推進する――の3つを挙げた。

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<キンシバイ(金糸梅)> 梅雨時を彩る鮮やかな黄花 「草山吹」の別名も

2013年06月14日 | 花の四季

【ビヨウヤナギに次いで江戸時代、中国から渡来?】

 オトギリソウ科の半落葉性の低木。原産地は中国中南部から台湾にかけて。5弁の花びらの真ん中に広がる黄色いオシベを金糸にたとえ、花の形から梅に見立てて、この名が付いた。同じ仲間でそっくりな花にビヨウヤナギ(美容柳、未央柳)がある。花弁がキンシバイより細めで、長いオシベが放射状に突き出しているのが特徴。

 渡来時代については平賀源内が書いた「物類品隲(ひんしつ)」の記述などから江戸中期の宝暦10年(1760年)といわれてきた。だが、それより50年ほど前に出版された貝原益軒の「大和本草」(1709年)では「金糸梅(クサヤマフキ)」としてこう紹介されている。「花の形、仲椀のごとし。しべ金糸のごとし。金糸桃より糸短し」。この中に出てくる「金糸桃」はビヨウヤナギを指す。

 貝原益軒はその前に出版した「花譜」(1694年)にこの「金糸桃」を取り上げ「花は桃に似て、葉は柳に似たり。しべ長し、金糸のごとし」と記す。だがキンシバイはこの「花譜」では言及されていない。いずれにしろキンシバイが18世紀前半に渡来していたのはほぼ間違いなさそうだ。ちなみに慶応大学名誉教授だった磯野直秀氏(博物誌史)の「明治前園芸植物渡来年表」では、キンシバイは享保2年(1717年)、ビヨウヤナギはそれより100年以上前の慶長8年(1603年)に渡来したとしている。

 近縁種に小アジア原産の「セイヨウ(西洋)キンシバイ」や、北米南部原産の「ホソバ(細葉)キンシバイ」など。セイヨウは花の径がやや大きく、オシベが突出していてキンシバイよりビヨウヤナギに似る。静岡県伊東市の松川湖展望広場にはこの時期、約3万株のキンシバイが7月上旬にかけて咲き乱れる。三重県松阪市のカネボウ跡公園(鈴の森)にはセイヨウキンシバイが約7300株。6月中旬~7月下旬が見頃という。「金糸梅水のひかりをためらはず」(六角文夫)。

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<スモークツリー> 綿菓子のようにフワフワ! 「煙の木」「霞の木」とも

2013年06月13日 | 花の四季

【明治初期に渡来、和名は「ハグマノキ」】

 南欧からヒマラヤ、中国中部にかけて広範囲に分布するウルシ科の落葉小高木。日本には明治初期の1870年に渡来した。6月ごろ、黄緑色の小花を多数付け、花が終わった後に伸びる花柄部分が羽毛のようになって 遠目からは煙が立ち上るようにも見える。このため「ケムリノキ(煙の木)」や「カスミノキ(霞の木)」とも呼ばれる。その不思議な花姿や鮮やかな紅葉の美しさから庭のシンボルツリーとしても人気が高い。

 正式な和名は「ハグマノキ(白熊の木)」。ハグマはチベットやネパールの高地に生息する動物ヤクの尾の毛を染めたもので、僧侶の払子(ほっす、法具の1つ)や武将の采配などとして使われた。フサフサの花姿がハグマに似ていることから、この名が付いた。漢名では「煙樹」や「黄櫨」などと呼ばれる。

 雌雄異株で、煙状になるのは雌株。幹からは黄色の染料が採れる。中国では唐の時代、この染料で染めた衣服は高貴な色として皇帝しか使用が許されなかったという。これが日本にも伝わって、「黄櫨染(こうろぜん)」は天皇以外の着用が禁じられた。ただ日本では本種ではなくハゼノキやヤマハゼで染めたもの。樹皮からはタンニン(渋)が採れ、皮のなめしに使われる。

 花柄は白からピンク、濃い赤紫色まで様々。葉色も変化に富む。矮性や枝がしだれる変種もある。関西では京都市の同志社女子大学今出川キャンパスのスモークツリーが有名。「同志社女子部の母」といわれた米国出身のデントン女史(1857~1947)の手植えといわれる。同大学には女史が愛したこの「煙樹」にちなみ「えんじゅ寮」と命名された学生寮がかつてあったそうだ。

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<平山郁夫展> 生涯尽力した文化遺産保護活動にもスポット!

2013年06月12日 | 美術

【龍谷大学龍谷ミュージアムで30日まで開催】

 日本文化の源流〝仏教の来た道〟をたどりながら数々の作品を残す一方、ユネスコ親善大使としてアフガニスタンなどでの文化遺産保護活動に取り組んだ平山郁夫画伯(1930~2009)。その画業や保護活動を振り返る特別展「平山郁夫 悠久のシルクロード」(30日まで)が京都市の龍谷大学龍谷ミュージアムで開かれている。

  

 中学3年生の時、広島で学徒勤労動員中に被爆した平山画伯は、平和を願う作品の第1作として「仏教伝来」を描き1959年の院展で発表した。その後、60年代半ばからシルクロードをはじめ世界各地を取材旅行した。第1章「釈迦の生涯」と第2章「シルクロードから日本へ」ではそうした中で想を得た「仏伝シリーズ」や「大シルクロードシリーズ」などの作品29点を展示している。「受胎霊夢」(写真㊤)は日本芸術院賞受賞作で、摩耶夫人が釈迦を身ごもった際、白い象が下りてきたという仏伝に基づく。

 

 平山画伯はラクダのキャラバン隊も多く描いた。「この宝物類(正倉院)の多くは、遣唐使節によって長安の都からもたらされたものだが、生産地はインド、ペルシャ、シルクロードのオアシスの国々などで、いずれもらくだのキャラバンによって、砂漠のシルクロードを渡って運ばれたものである」(「日本のこころ<地の巻>私の好きな人」から)と、キャラバン隊への熱い思いを書き残している。今回も「絲綢(しちゅう)の路 パミール高原を行く」(写真㊤)や「シルクロードを行くキャラバン」などの大作が出品されている。

     

 2001年、アフガニスタンの世界遺産バーミアン渓谷の古代遺跡群が武装勢力タリバンによって爆破された。今展にはその報を聞いて急遽、絵筆を執った「バーミアン大石仏を偲ぶ」と、その翌年ユネスコ調査団に同行して描いた「破壊されたバーミアン大石仏」(写真㊧)が出ている。石仏修復の話もあったが、平山画伯は人類の愚かさを伝える〝負の遺産〟として現状のまま保存するよう提言したという。取材旅行には必ず美知子夫人も同行した。その夫人の「取材ノート」も同時に展示されている。夫人は東京美術学校(現東京芸大美術学部)の同級生で、現在「平山郁夫シルクロード美術館」の館長を務める。

 第3章「ガンダーラの美術と東西文化の融合」と第4章「コインに見るシルクロードの歴史」の展示物は、夫妻が40年間にわたって収集した同美術館のコレクションの一部(写真㊨はガンダーラ出土の3世紀頃の「仏陀坐像」)。第5章「文化遺産の保護活動」では「流出文化財保護日本委員会」が保管する仏像や壁画など十数点が並ぶ。内戦が続くアフガニスタンで多くの文化財が略奪され流出することを憂えた平山画伯は、生前「文化財赤十字構想」を提唱し世界各国に文化財受け入れを働きかけた。その多くが現在日本で保管されており、治安が回復したらアフガニスタンに返還される予定という。

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<カラタネオガタマ(唐種招霊)> バナナに似た甘い芳香を発散

2013年06月11日 | 花の四季

【別名「トウオガタマ」「バナナ・ツリー」 江戸中期に渡来】

 モクレン科オガタマノキ属の常緑樹で、原産地は中国南部。日本原産のオガタマノキ(オガタマ)の仲間で江戸中期に渡来した。別名「トウオガタマ」。花期は5~6月で、バナナにそっくりの不思議な甘い香りを放つ。そのため英名では「バナナ・ツリー」や「バナナ・ブッシュ」と呼ばれる。まれにしか結実しないから「カラタネ」の名が付いたともいわれる。

 オガタマ(花期2~4月)は高さが10~20mの高木になるが、カラタネオガタマは3~5m程度と低く、公園樹や庭木として植えられることが多い。花被片は6枚とシンプルで、他のオガタマノキ属(9~21枚)に比べると少ない。花の径は3cm前後。オガタマの花は白いが、カラタネは外側がバナナに似たクリーム色で、内側には紫紅色のボカシが入る。。

 カラタネは芳香に加え、半開きの花姿が控えめで慎ましいことから、茶花として用いられる。中国名は「含笑花」。花から芳香油を精製して香料とし、生薬「含笑」は鼻炎や消化不良などに効くという。台湾ではこの花を髪に挿して花飾りにしていたという。花が紅色の「ベニバナカラタネオガタマ」という品種もある。

 オガタマ(招霊、小賀玉)の名前は神霊を招き寄せる「招霊(おぎたま)」が転訛したもの。古くから榊(さかき)とともに神前に供えられてきた。そのため、日本原産のオガタマは神社で見かけることが多い。京都市の白峯神宮のオガタマは推定樹齢800年という巨樹。そのほか関西では大阪の枚岡神社、杭全神社、道明寺天満宮、奈良の手向山八幡宮、和歌山の熊野速玉大社など、各地の神社に植えられている。「をがたまの花咲き社家の娘が嫁ぐ」(大橋敦子)。

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<シモツケ(下野)> 枝先に淡紅色の無数の小花 白花や穂咲きも

2013年06月10日 | 花の四季

【名は最初に見つかった旧国名に由来。中国の伝説から「繍線菊」とも】

 「バラ科シモツケ属ヤポニカ種」の学名を持つ落葉低木。日本各地の山野のほか、朝鮮半島や中国にも分布する。名前は下野の国(今の栃木県)で最初に見つかったことに因むというのが定説。ただ、白い粉をかぶった蕾や長いオシベが林立する花姿が、遠目で霜が下りたように見えることから「霜付け」に由来するとの説もある。

 シモツケの花は淡紅色の5弁花。同じ仲間に白花の「シロバナシモツケ」(下の写真㊧)や花を円錐状に付ける「ホザキ(穂咲)シモツケ」(写真㊨)、葉が丸い「マルバシモツケ」などがある。アイズ(会津)、エゾ(蝦夷)、トサ(土佐)、イブキ(伊吹)など地名を冠したものも多い。箱根や富士山などに自生し、牧野富太郎博士が命名した「オヤマ(御山)シモツケ」というのもある。

   

 コデマリやユキヤナギ、シジミバナなども同じ仲間のシモツケ属。シモツケに似た花を付ける植物にシモツケソウ(下野草)があるが、これは同じバラ科でもシモツケソウ属に分類されている。シモツケが木本なのに対しシモツケソウは草本と全く別の植物。シモツケは「キシモツケ(木下野)」とも呼ばれる。この別名も紛らわしいシモツケソウとの違いをはっきりさせるために付けられたのだろう。

 シモツケは漢名から「繍線菊」とも書かれる。この名は中国・戦国時代の「繍線(しゅうせん)」という少女の悲しい伝説から。少女は敵に捕らわれ牢獄につながれた父を救うため、男装して苦労の末、牢屋の番人になる。だが、父はその時すでに他界していた。少女は父の思い出にお墓のそばに咲いていた花を摘んで故郷に戻っていく。人々はその花を親孝行な少女の名から「繍線菊」と呼ぶようになった――。「後の日に知る繍線菊の名もやさし」(山口誓子)。

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<アンビリバボー> 根は大根、葉はキャベツ その名は「キャベコン」!

2013年06月09日 | アンビリバボー

【奈良県馬見丘陵公園館で展示中】

 「な、なに? これ」。奈良県馬見丘陵公園(広陵町・河合町)の公園館に入ってすぐの所に、その奇妙な〝合体植物〟が並んでいた。葉がキャベツ、根は大根で、名付けて「キャベコン」。キャベツとコンビーフの炒め物料理「キャベコン」と同じ名前が付けられている。

 

 説明書きで作り方を紹介していた。「本葉が出始める小さな時期に、お互いに水平に切り、大根を下に、キャベツを上に載せて接ぎ木したもの」。大根が台木、キャベツが接ぎ穂というわけだ。合体後、ビニールで密閉して真っ暗にし、少しずつ外気に慣らしていくと10日ぐらいで活着する。だが、成功率は10%以下という。「キャベコン」を作り出す技術はもともとキャベツの根こぶ病対策として、病気に強い大根に着目して開発された。

    

 「このようなことができるのは同じアブラナ科植物だから」とも書かれていた。ということは、大根やカブ、ハクサイ、ブロッコリー、カリフラワーなどとの組み合わせも可能ということ? キャベツ抽出成分を利用した「キャベジンコーワ」という胃腸薬があるけど、キャベツを科が違うニンジン(セリ科)に接ぎ木して「キャベジン」を作るのは無理ということ?

 公園館の担当者によると「キャベコン」は大根、キャベツそれぞれの味がするが、市販のものに比べると「とてもかなわない」そうだ。しかも接ぎ木などに手間ひまがかかる。このため市場で流通することはまず考えられないという。仮に品質が良くなって大量栽培に成功したとしよう。でも、合体したままの姿で野菜売り場に並ぶ光景は、想像するだけでもぞっとするなあ。

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<花菖蒲2題> 馬見丘陵公園、大和民俗公園の花菖蒲園ちょうど見頃に

2013年06月08日 | 花の四季

 あでやかな花姿で梅雨時を彩ってくれる花菖蒲。今年は寒さで開花がやや遅れ気味だったが、奈良県内では今ちょうど見頃を迎えている。県内有数の花菖蒲園がある馬見丘陵公園(広陵町・河合町)では7~9日「花菖蒲まつり」を開催中。期間中、音楽演奏をはじめ多彩な催しを開く。県立大和民俗公園(大和郡山市)でもほぼ満開でカメラマンたちでにぎわう。

【馬見丘陵公園=約100種の花菖蒲が咲き競う】

 

 公園の広さは約65ha。園内にはナガレ山古墳をはじめ多くの古墳(馬見古墳群)が点在する。菖蒲園は乙女山古墳に近い中央エリア内にあり、広さ約3000㎡。緩やかに蛇行する地形の園内に約100種3万本の花菖蒲が、今や盛りと咲き競っている。7日には植木市やアコーディオン演奏などが行われていたが、8~9日には野点やネイチャーゲーム、公園館前特設ステージでの音楽演奏など様々なイベントが繰り広げられる。1カ月後の7月6日には「花菖蒲の株分け体験教室」も開く予定。

【大和民俗公園=水車小屋が景色に溶け込む花菖蒲園】

 

 矢田丘陵の一角にあり、広さは26.6ha。県内の古民家15戸を移築・展示している。花菖蒲園の規模は馬見丘陵公園に比べると小さいが、色とりどりの花菖蒲は60種類を超える。水車小屋がその景色の中にすっかり溶け込んでおり、7日には女性たちが写生したり、男性が写真に収めたりしていた。花の美しさをこうして愛でることもできるのも、丹念に手入れしてきた担当者のご苦労のお陰だろう。

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<公開セミナー「京都の庭園と森」> 庭師の仕事は「作庭4分、維持管理6分」

2013年06月07日 | メモ

【植彌加藤造園社長の加藤友規氏「庭師も景色の一部」】

 「京都の庭園と森~人と自然の調和」をテーマにした京都伝統文化の森推進協議会の公開セミナーが6日、京都市の京都大学稲盛財団記念館で開かれた。第1部では京都造形芸術大学教授の尼崎博正氏が「日本庭園の自然観」、植彌加藤造園(京都市)社長の加藤友規氏が「自然と調和する庭園を育む」と題して講演、第2部では京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二氏をコーディネーターにパネルディスカッションを行った。

   

 加藤友規氏(写真)は嘉永元年(1848年)創業の植彌加藤造園の8代目。加藤氏は庭園管理を任されている無粼庵、嵐山の「星のや京都」、けいはんな記念公園を例に、庭師の仕事や庭園管理の留意点などについて述べた。「作庭4分、維持管理6分」。作庭後の庭園管理の大切さを説いたもので、代々引き継いできた言葉という。

 無粼庵は南禅寺のそばにある山県有朋の別荘。7代目小川治兵衛の作庭で、東山を借景に琵琶湖疏水を引き入れた池泉回遊式庭園。国の名勝にもなっている。「山県有朋は京都の伝統的な作風を好まず、野趣に富んだ自然風の庭を望んだ。その感性に敬意を払って作庭当時の意図を反映するとともに、環境の変化・生態の変化も考慮している」。庭園管理の留意点をこう説明する。

 4年前に大改修した「星のや京都」は「宿泊・おもてなしの枯山水の庭」を基本に、ただ見るだけの枯山水ではなく、利用できるラウンジ化した枯山水を目指した。ベンチの石鏡には木々の緑や紅葉が映る。「庭師も景色の一部」もコンセプトの1つ。「鋏の音は小鳥のさえずりや小川のせせらぎと同じ。庭師は景色に溶け込む存在でなくてはならない」。さらに「黒子(裏方)の役割を粛々と果たしながら、必要とあればキャストもこなせる柔軟さも必要」とも話す。宿泊客のリクエストで庭園を案内することもあるそうだ。好きな言葉に「晴好雨奇」。晴天でも雨天でも日本庭園にはそれぞれに味わいがある――。

 尼崎博正氏は日本庭園研究の第一人者で作庭家でもある。昨年2月、評伝「七代目小川治兵衛」を出版した。日本庭園は「自然と人と時間の共同作品」とし、「周辺の自然景観との一体化、京都では三山とどう関わっているかが勝負どころ」などと話した。パネルディスカッションでは、尼崎氏は「庭は庭師と施主が一緒に作り上げるもの。施主の見識、感性が欠かせない」と指摘、加藤氏は「自然の中で暮らし感性を磨いた昔と違って、今は意識して自然と向き合わなくてはならなくなった」と危機感も訴えた。改めて庭師という世界の奥深さを垣間見るセミナーだった。

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<オオヤマレンゲ(大山蓮華)> 清楚で気品あふれる〝森の貴婦人〟

2013年06月06日 | 花の四季

【別名「ミヤマレンゲ」、利休に愛された〝7選花〟の1つ】

 モクレン科の落葉低木で、関東北部以西の標高1000mを超える山地に自生する。近畿地方の最高峰、大峰山系の八経ケ岳(奈良県)周辺の群落は国指定の天然記念物。大山蓮華の名前も最初に群生地が見つかった大峰山系とハスに似た花の形に由来する。別名「ミヤマレンゲ(深山蓮華)」。純白でややうつむき加減に花を開く。その清楚で気品あふれる花姿から〝森の貴婦人〟と称される。

 近縁種に朝鮮半島や中国原産の「ウケザキオオヤマレンゲ」「オオバオオヤマレンゲ」があり、中国では「天女花」と呼ばれる。ウケザキはホオノキとオオヤマレンゲの雑種とみられ、花はその名の通り上向きに付ける。オオバはおしべの葯の色が深紅色で、オオヤマレンゲのピンク色と異なり、花も葉も大ぶり。いずれも江戸時代には渡来していたらしい。

 オオヤマレンゲは古くから茶花として珍重され、とりわけ千利休はこの花を愛して、よく茶花として用いた。〝利休7選花〟の中にもシロワビスケやナツツバキ、ヤマボウシなどとともに含まれている。ただ、オオヤマレンゲはもともと高所に自生し、平地の庭園では栽培がなかなか難しいという。そのため、茶花として用いられてきたのは主にオオバオオヤマレンゲではないかともいわれる。

 大峰山系のオオヤマレンゲが国の天然記念物に指定されたのは今から90年近く前の1928年。指定の30年ほど前に群落を見つけた植物学者・白井光太郎は「山の東斜面に数百メートルにわたり、幅約15メートルの間に老樹が群落をつくり、まったく壮観であった」との報告を残している。地元の人は「ビャクレンゲ」と呼んでいたという。その自生地は2004年ユネスコの世界文化遺産になった「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部になっている。地元奈良県天川村の「村の花」でもある。

 だが、近年は絶滅のピンチに立たされている。原因はニホンジカによる食害。そのため奈良県は環境省とともに自生地をネットの柵で囲むなど保全対策に躍起になっている。オオヤマレンゲは奈良のほか静岡、石川、島根、山口、福岡、鹿児島の各県が絶滅危惧Ⅰ類(絶滅寸前種)に指定、昨年には埼玉県も追加指定した。

 そんな中で「町の花」になっている岐阜県上松町での官民一体の取り組みは明るい話題。町主催で写真コンテストを開いたり、愛好者でつくる「オオヤマレンゲを育てる会」が苗木を配ったり、積極的な保護・増殖活動を展開してきた。町内にある木曽・赤沢自然休養林内の自生地は6月中旬~7月上旬が見ごろという。

(訂正)上記下線部の「岐阜県上松町」は「長野県上松町」の間違いでした。「ちろ黒さん」、ご指摘ありがとうございました。

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<BOOK> ベスト新書「こけるな日本」 (堀田力著、KKベストセラーズ発行)

2013年06月05日 | BOOK

【「国や役所任せでなく、1人1人がもっと、ものを言う社会に」】

 著者は1934年京都市生まれの79歳。現在弁護士、さわやか福祉財団理事長。元検事で東京地検特捜部時代にはロッキード事件に関わり、起訴後、田中角栄元首相への論告求刑を担当した。本のタイトルと「あぁ、日本、どこへ行く」という帯の言葉に、閉塞感が漂う日本の現状と行く末を憂える著書の思いが端的に表れる。

   

 8章構成。第2章「最悪のシナリオは、第三次世界大戦」という表題にはドキッとさせられる。中国、北朝鮮を念頭に「独裁国家は国民の不満のほこ先をかわすため侵略戦争の愚挙に出るおそれがある」と警告する。第3章は「最善のシナリオは、世界政府の樹立」。戦争の懸念をなくすには「EUのような国の連合体を5大陸の各地域の可能なところから広げていき、やがて連合している国を融合させること」とし、中国と北朝鮮については地理的に取り巻く国・地域がEUのような〝アジア民主主義国家連合〟をめざすことが両国の民主化にとっても有効と指摘する。

 将来の国際的紛争の大きな原因として挙げるのが発展途上国での人口爆発。第4章ではこの問題を取り上げ、食糧・資源の限界から世界の人口を2020年の80億人を頂点として漸減させ「2090年に20億~30億人にするという目標を共有すべきだ」との主張を展開する。一方、日本では少子高齢化で年金制度の維持や医療・介護保険料の継続的な上昇が懸念されるが、「もっと移民に門戸を開き人口構成を釣り鐘型に近づける努力が必要」と言う。

 第5~6章では「国と資本の狭いエゴの排斥」と「世界の国民の狭いエゴの抑制」が平和と繁栄の鍵になると指摘。その中で国際司法裁判所の権限拡大、国連安保理での拒否権の改革などを提案し、日本については「憲法9条の旗を掲げつつ、中国をはじめとする世界の各国に武力行使の愚かさを説く国になりたい」とする。民主主義の欠点や資本主義の欠陥にも触れ、クオーター制(割り当て)による女性の積極的な登用や「同一価値労働同一賃金」のルール化なども説く。

 堀田氏は東日本大震災を機に被災地を中心にした「地域包括ケアの町」づくりを提唱し、国や自治体に働きかけてきた。だが復興は遅々として進んでいない。第7章「東日本大震災があぶり出した日本の問題」では自助・共助・公助の3つが不可欠とし、復興の遅れは縦割り行政とリーダーの不在で将来の全体像が描けていないことが大きいと指摘する。最終章はこう結ぶ。「子や孫の世代が明るく楽しい毎日を送れる日本社会をつくるには、国や役人任せにするのではなく、1人1人がもっと、ものを言う社会に変えていく必要がある」。

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<センダン(栴檀)> 可憐な淡紫色の小花がびっしり 遠目にはまるで藤の花!

2013年06月04日 | 花の四季

【別名「オウチ(楝)」万葉集にも、「獄門の木」の異名も】

 センダン科の落葉高木で高さが20~30mにもなる。主に西日本の海岸近くの暖地に自生し、初夏、淡紫色の小花をびっしり付ける。花びらは5枚で細長く、まるで小さな風車。秋になると黄色の実を鈴なりに付け、落葉した後も枝に残る。その姿から「金鈴子」と呼ばれる。材は淡褐色で光沢があり加工しやすいため、建築や家具、下駄、木魚、楽器材(筑前琵琶)などに幅広く利用されてきた。果実や樹皮は「苦楝子(くれんし)」「苦楝皮」と呼ばれ、整腸やひび・あかぎれ、虫下しなどの効能がある。

 別名「オウチ(楝)」。古くは「アフチ」と呼ばれ万葉集にも4首詠まれている。「妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに」。筑前国守として赴任した山上憶良は奈良の都で亡くなった妻をしのんでこう詠んだ。大伴家持は「ほととぎす楝の枝に行きて居ば 花は散らむな玉と見るまで」。唱歌「夏は来ぬ」(佐佐木信綱作詞)の4番目にも「楝(オウチ)散る川辺の宿の門遠く……」と歌われる。

 古くから親しまれてきた樹木だが、センダンには一方で「獄門の木」「さらし首の木」といった怖い異名も付けられている。壇ノ浦で生け捕りにされた平家の大将、平宗盛と清宗の父子は斬首処刑された後、その首が京都の獄門の前にあったオウチの木に掛けられた……。平家物語にはこんなくだりがある。オウチはさらし首を置く台にも必ず用いられたといわれる。このためセンダンは長く〝忌木〟として敬遠されてきた。

 センダンには2種類の樹木がある。日本に自生するこの落葉高木と東南アジア原産の常緑高木。「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は後者のビャクダン科に属す白檀を指す。仏典「観仏三昧海経」の中の言葉からこの諺が生まれた。白檀はインドでは古くから香木として使われ、サンスクリット名の「チャンダナ」が漢名で「センダン(栴檀)」に訳された。一方、日本のアフチ・オウチがセンダンと呼ばれるようになったのは江戸初期ともいわれる。新井白石は「東雅」(1717年)の中で「楝は即ち苦楝、その子は金鈴子といふ。俗にセンダンといふ是なり」と記す。

 センダンの中には国の天然記念物に指定されている巨樹が2つある。香川県の「琴平町の大センダン」と徳島県阿波町の「野神の大センダン」。樹齢はいずれも300年を超える。福井県鯖江市にある照臨寺のセンダンは2年前、市から県の天然記念物に格上げされた。福井県はセンダンの分布域のほぼ北限に当たるという。

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<蛇巻き> 奈良・田原本町「今里」と「鍵」の両地区で開催

2013年06月03日 | 祭り

 奈良盆地の中央部に位置する田原本町の今里地区と鍵地区で、2日「蛇巻き(じゃまき)」と呼ばれる伝統行事が行われた。田植えを控え豊作を祈る〝野神まつり〟の1つ。男子の成人を祝う意味も込められており、旧暦では5月5日(今は6月の第1日曜)に行われていた。400年余り前の江戸初期から続く行事で、文化庁により「選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を構ずべき無形の民俗文化財)」に指定されている。

【今里=長さ18mの蛇を担ぎ練り歩き、途中、蛇綱でぐるぐる巻きに】

   

 蛇づくりは杵築神社境内で、法被姿の氏子たちの手によって午後1時ごろから始まった。材料は10日ほど前に刈り取った新麦ワラ。途中からは少年たちも加わり、掛け声に合わせて綱をよっていく。2時間後、長さ18mの蛇体が完成した。頭にお神酒を注いでお清め。参拝者や見物客にはワラに吊るされた〝ワカメの味噌煮〟が振る舞われた。少し甘くてなかなか美味。蛇の頭をかたどっているという。

   

 蛇は午後3時半すぎ、少年ら約30人に担がれて神社を出発した。「蛇が入りやすいように表を開けてお待ちください」と地区内の放送。ほぼ全戸に当たる約90軒を次々に訪ねては大声で「おめでとう」と祝福して回った。その間2時間余。途中、数カ所で蛇が突然大暴れしては、少年らを蛇綱に巻き込んだ。巻き込まれた人は1年間、無病息災に過ごせるという。事名の「蛇巻き」もここから来た。

 

 神社に戻った蛇は境内にある榎(えのき)の大木に巻き付けられた。幹が分かれた高い所に、頭を今年の恵方・南南東に向けて載せる。クレーン車を使っての作業だったが、蛇の重みもあって据え付けにひと苦労。その後、胴と尾を何重にも巻いて、約40分がかりで〝昇り竜〟の形が完成した。その大木の下にある小さな祠には牛・馬を描いた絵馬と鎌・鍬などの農機具のミニチュアが奉納された。

 

【鍵=蛇の頭と胴を〝綱引き〟しながら集落内を練り歩く】

 

 鍵地区は弥生時代の環濠集落で有名な「唐古・鍵遺跡」のすぐそばにある。鍵の八坂神社境内では今里より一足早く午前中から蛇づくりが行われた。ワラで作った大きな俵を組み合わせて頭を作り、それに長い胴をつける。こちらも2時間がかりの作業。榎の小枝で飾られた頭の重さはなんと160kgほどもあるという。

   

 午後2時ごろ神社を出発。頭は氏子の男性や若者らに担がれ、その後ろの胴体を少年たちが持って集落内を練り歩いた。その途中、少年たちが「引っ張れ!」と蛇頭の前進を阻もうと引っ張って〝綱引き状態〟に。頭がじりじりと後ずさりする場面もしばしばあった。頭はもともと17歳になった若者が担ぐことになっており、綱引きには若者が仲間の少年たちから離脱する通過儀礼の意味合いが込められているそうだ。

 集落内を巡った蛇はその後、八坂神社から少し離れた田原本北中学校前の小さな公園まで運ばれた。頭は榎の根元に置かれ、胴は上の枝に張り巡らされた。今里が〝昇り竜〟なのに対し、鍵はその形から〝降り竜〟といわれる。この後、神社では蛇巻き行事の無事終了を祝って、にぎやかに直会(なおらい)が行われた。

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<大和万歳資料> 奈良県民俗文化財指定に伴って県立民博で公開

2013年06月02日 | 考古・歴史

【衣装や文書・写真・採物の扇・鼓胴など48点】

 奈良県立民俗博物館(大和郡山市)で1日からコーナー展「新指定 民俗文化財紹介」が始まった。館蔵の「大和万歳資料」48点が3月末、奈良県民俗文化財に指定されたことに伴うもの。大和万歳でかつて使われた衣装の烏帽子や袴、採物の扇や小鼓、写真など往時の活動をしのばせる資料の数々が展示されている。7月15日まで。

 

 万歳は正月を寿いで1年の幸せを祈る祝福芸で、太夫と才蔵が2人1組になり扇や小鼓を持って軽妙な掛け合いと舞を披露する。今の漫才の原型といわれ、古くから全国各地に伝わっている。大和万歳は鎌倉時代の記録にも残り、安堵町や広陵町などに本拠を置き農閑期を利用して畿内を巡回した。大正年間までは京都御所にも参内していたという。1955年には県指定文化財に。しかし、その後伝承が途絶えて77年には指定が解除された。

 

 博物館所蔵の資料は最後の伝承者の家族から寄贈されたもの。48点の内訳は衣装が烏帽子や帯も含め19点、採物が扇や小鼓の胴・皮・調緒の21点、それに写真と文書各4点。文書の中には正月に京都御所への参勤を伝達する江戸時代後期の〝達状〟も含まれる。大和万歳には「柱立」や「田植舞」「月歌」など十余の歌詞が伝わっていたという。

 全国各地では尾張や三河、越前などの万歳が国の重要無形民俗文化財に指定され、今もしっかりと伝承されている。その一方で大和万歳のように後継者不足などを理由に姿を消したり、存続が危ぶまれたりしているものも少なくない。高齢化や過疎化が進む中で、民俗芸能を伝承していくことがいかに難しいかを物語る。ただ地域によっては復活の取り組みも始まっており、豊後万歳(大分県)は2010年に新しく保存会が発足した。大和万歳は途絶えてすでに30年余。もう復活は無理なのだろうか。

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