【帝塚山大学市民講座で伊藤純・大阪歴史博物館学芸員】
聖徳太子の最古の肖像画といわれる「唐本御影(とうほんみえい)」。法隆寺が長く所蔵していたが、約140年前、皇室に献納されて御物になった。法隆寺は現在、江戸時代に幽竹法眼が写した模写図(1763年)を所蔵する。法隆寺にとってこの唐本御影とはどんな存在だったのか。大阪歴史博物館の学芸員、伊藤純氏は15日開かれた帝塚山大学(奈良市)の市民大学講座で「〝聖徳太子像〟―御物『唐本御影』の伝来過程」と題して講演、「江戸時代には開帳(集客・集金)の目玉として、庶民に近い場所に存在し、その図柄は多くの人の目に触れたのではないか」と語った。
幽竹法眼筆の模写図(1763年)
唐本御影に描かれた聖徳太子のお顔は、長く1万円札の肖像のモデルとしておなじみだった。だが、この肖像画がいつ誰によって描かれたのかは不明。制作年代については奈良時代の8世紀ごろという説が有力という。史料には平安時代の学者・大江親通が書いた「七大寺巡礼私記」(1140年)に初めて登場した。「太子俗形御影一輔、件御影者唐人筆跡也。不可思議也」と記す。法隆寺側が大江に見せたのだろう。
鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が寺伝や聖徳太子の秘伝などを集大成した「古今目録抄」(別名「聖徳太子伝私記」)の上巻(1238年)には、唐本御影の名の由来が記されている。それによると、唐人が2本を描いて1本を日本にとどめ、もう1本は本国に持ち帰ったとし「故言唐本御影と」としている。
法隆寺は聖徳太子と推古天皇が用命天皇の病気平癒を祈願して建立し607年に完成したといわれる。当初の信仰の対象は太子が胎内から持ってきたという舎利。太子にまつわる有名な寺院にはほかに、太子が建立した最古の寺といわれる四天王寺(大阪市)、太子の墓所がある叡福寺(大阪府太子町)がある。
平安時代以降、太子信仰が高まる中で、四天王寺では1007年に太子自身の言葉が記され手形も押された「御朱印縁起」が見つかった。さらに叡福寺では1054年、石に刻まれた「聖徳太子御記文」が発見された。ただ、いずれの〝発見〟も伊藤氏によれば「ウソ」。太子信仰の拠点として、より多くの参拝客を集めるために捏造されたというわけだ。
一方「2寺に出遅れた法隆寺は正真正銘、聖徳太子の寺であることの証しとして唐本御影を利用した」。法隆寺の記録「嘉元記」(1305~64年)によると、1325年、法隆寺領だったという播磨の国の荘園「鵤庄(いかるがのしょう)」を巡る争論の際には「法隆寺の立場を通すため、幕府を威圧する道具として唐本御影を鎌倉まで持ち出した」。
江戸時代に入ると、唐本御影は1694年(元禄7年)江戸での出開帳に出された。「それが評判を呼んで閲覧希望が殺到したため、寸分違わぬ精巧な写しが幽竹によって作られたのではないか」。それ以降、唐本御影の原本、または幽竹の写しを参考にしたとみられる肖像が次々に描かれ、芸能の世界でも聖徳太子が登場する演目が作られた。
「江戸時代、唐本御影に描かれた太子像の絵柄はチラシなどにも使われ、随分活躍したに違いない。だが、明治時代に入って皇室に献上されると、それ以降、人々の目から次第に遠ざけられ秘匿されたのではないだろうか」。伊藤氏はこう推測している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます