心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

炊飯器

2015年11月12日 | ほんのすこし
前にここで炊飯器のことを書いたことがある。
今の炊飯器はすごいって。
今日、母のところから戻るときに、母がご飯炊いたのをすっかり忘れていて、
「あれ~!昼に炊いたのにかき混ぜるのを忘れていたあ!!」
と、情けない声で言った。ふたを開けると、そこには炊きあがったご飯が塊になっている。失敗だね~。
「こうなってしまうと美味しくないんだよ」
と母がぶつぶつ。
わたしはそんな母をしり目に、午後から水を入れておいた米をこれから炊かなくてはと急いだ。
部屋に戻り、しっかり米を研ぎ、炊飯。

途中、いつも通りの炊飯器のラップが始まる。
とても陽気な炊飯器だ。
こんな音のする炊飯器、今までお目にかかったことがない。
しかも最後のきわめつけ、炊きあがると女性の声で「ご飯が炊きあがりました。ご飯をかき混ぜてください」と丁寧なご案内までがある。
今日はその声が聞こえると同時にスタンバイ。さっさとかき混ぜた。

う~ん。
新米の秋の匂いがするぅ。(って、どんな匂いなんだ?)
設定を「もちもち」にしたせいか、しゃもじでかき混ぜたときにねっとり感が半端じゃない気がした。
ご飯だけでも食べれるかも!
あぁ、秋って誘惑が激しい。
美味しいものがわんさか。お米を先頭にね。

わたしの部屋の中で炊飯器がともすれば突っ込み相手になりつつあるなと、今日はつくづく思っていた。


ちょっと一区切り

2015年11月12日 | ほんのすこし
さきほど、ちょっと一区切りついたのでここらで休憩♪
あと一つ吟味して作成するものがあるけど、明日中にできるかなと思って休憩♪

おぉっ休憩って言葉、なんか仕事したって感じがするぅ(笑)
なんて、ほんとは仕事っていってもそんなに重要じゃないのかもしれない。ほとんど自己満足でやっている毎月のことだろうなと思っている。申し訳ないね、お給料もらっちゃってって気分にいつもなる。
「あなたが頑張ってきたからその対価だと思ってればいいのよ」
と、何年も前に友人から言われた。
そう思えればそれにこしたことはないんだけど……小心者のわたしはどうも居心地が悪い。
もっとしゃかりきに働いてお金がもらえたらなあとつい思ってしまう。
裏を返せば、こんなに待遇の良い人はいないのではということなのだ。すみません、甘えています。

そんなわたしの諸事情?もあって、窓際族よろしくの日常。いてもいなくても、いやいないほうが都合が良いような存在なのかもしれない。それでもしがみついていなければ生きていけない、この年になってしまってからは。後数年、後数年。その後の年金生活は不安だらけでもあるが。母曰く
「今から贅沢しないで節約することを覚えないと暮らしていけなくなるよ」と。
「だから母さん長生きしてよ。母さんとわたしの年金があればなんとか暮らせると思うから」
「それまで生きていれるかねぇ」
「お願い!絶対生きててよ♪」
そんな会話がときどき出てくるようになった。
そういえば、買い物するときも節約よりも衝動買いが多いなと思う。これではいかん、来たるべく年金生活を乗り越えていけないぞ。買い置きしている物から消費していく癖をつけて買い物回数を減らそうっと。
お米だけはたんとあるので、缶詰めでもなんでも出してきて食べていけば大丈夫だろう。などと思っていた矢先、以前注文していたブーツが入ったとの電話が。

あぁ忘れていたわよ。
大枚が出ていく。
絶対そのブーツ年金生活になっても履くんだから。
いや、その頃にはヒールの高い靴は無理だったりして。今でもほとんどシューズが多いのに。なんで欲しいなんて思ったんだかなあ……試しに履いて鏡を見たらなんだか格好良かったのよねぇ。あれがまずかったなあ。
ついそのブーツを履いてダウンコートを羽織って颯爽と歩く姿を想像しちゃったのよねぇ。
それって今のわたしからかけ離れている気がしてならない。なんで選んじゃったかなぁ。

こう思っていても現物を見たらきっと気にいってしまうのは目に見えている(笑)
あぁ後は節約生活に入ろう……

猫の文庫本カバー買いました

2015年11月12日 | ほんのすこし
最近見つけた文庫本カバー。普段は文庫本にカバーをかけないで読む習慣があるのだけど、これを見つけたときには、カバーをかけるという誘惑に駆られ購入してしまった。しおり紐には猫の手が♪
猫の珍妙な表情がたまらない。

そういえば、グッズを手にするのは猫が多いことに気がついた。これまでぬいぐるみやクッション、靴下、ペンケースなどなど、探してみるとずいぶん猫がついているものが多い。お店に行って雑貨コーナーを覗いてみても、目が行くのは猫のイラストがついている物だったりする。

はて?わたしって猫好きなの?
自分では犬も猫も大好きで大好きで、といったことはこれまでなかった。というかどちらかという生き物が苦手。触るのが苦手。それが母のご近所さんの飼い犬や飼い猫と触れ合うようになってから徐々に変化してきた。そこの家のワンちゃんや猫ちゃんだったら大丈夫、触れる。
先日、さらに友人のところの柴犬の頭をなでることにも成功した。抱き上げるとかそういうことはいまだにできないが。

幼い頃は、子犬を抱き上げたりもしたものだが、トラウマがあって今まで出来なかった。小学生の頃、近所の秋田犬の散歩を頼まれて、自分より大きいぐらいのシロを連れて歩いた。真っ白で大きくて優しい目をしたシロを連れて歩くのはちょっとした鼻高々のわたしだった。いつもの散歩コースをいつもどおりに歩いていれば良かったのだが、その日に限って脇に逸れて友達の家まで行った。学校で秋田犬を散歩させている話をしたら見たいと言われたのだ。ほんの少しだけ脇にそれるのだからいいだろうと思って。

友達とシロに触れたり楽しんでいた。
ところが、その友達のすぐ近くにまだら模様の大きな犬がいて、なんの犬種か覚えていないけど突然シロに飛び交ってきて、生来シロは穏やかな性格だったので、わたしはびっくりというか怖くて震えあがってしまった。シロとその犬の格闘が始まって何分間かして近所の大人が止めに入り、ようやく双方が落ち着いた。
もうわたしはシロを連れて帰ることが出来なかった。友達のお母さんが連絡してくれたのだろう。母が迎えに来てくれた。そのことがあってからわたしはもうシロを連れて散歩に行くことも、シロに触れることもできなくなってしまった。あんなに大好きだったのに。それから間もなくしてシロが亡くなったと知らされたのは学校から帰ってきてからだった。シロの姿はどこにもなかった。母に聞いてもどうしたのか教えてくれなかったように思う。ただあのときの喧嘩の傷が原因で死んだの?と聞くと、病気らしいよとだけ答えてくれた。

シロが亡くなるなんて思ってもいなかったわたしは、なぜあんなに仲が良かったのに遊んであげなかったのかとその夜布団の中で泣いていた。

でもその後やっぱり犬を抱くことも触ることも出来なかった。それは大人になっても続いていた。

そんなわたしが母のご近所さんのおかげで少しずつ慣れていった。触るまでになったが、抱き上げることはまだ出来ない。たぶんずっとそうだろう。
犬に対しては触ろうとする気持ちがあるのだ。でも猫に対してはあえて触ることから遠のいている。わたしの中では猫は畏敬の念がある。おおげさだと思うだろうが、猫のあの悠然とした態度がとんでもなくすごく思えるときがある。自分には到底できそうもない姿勢だ。変に人間にこびず我が道を行くといった雰囲気があるのが、惹かれるのかもしれない。
そう感じる猫が、グッズになると途端に愛くるしいキャラクターだったり、とぼけたキャラクターだったりする。その現実とのギャップにたまらない魅力を感じてしまうのだ。猫のキャラクターを考えた人は素晴らしい(笑)
わたしが一番最初に猫に畏敬の念を抱いたのは多分「不思議の国のアリス」だったろう。チェシャ猫の存在に驚きその物語の魔力?に引き込まれるのにたいして時間はかからなかった。ルイス・キャロルの世界にいる生き物はなんて人間くさいのだろうと思った。
あれから猫が物語に出てくるとついチェシャ猫と比べている自分がいる。

現実の場面で猫に会うのは母のところだ。母の友達チビがいる。チビはわたしのことは無視するが、母が声をかけると挨拶する。チビよ、言葉がわかるのか?それともこいつはいい人間だ、こいつは我関せずで相手にしないほうがいい人間だって決めつけているのか?
わたしがその色違いの目を覗きこむと、面倒くさいなといった顔でそっぽを向く。
「あ~、今日もチビに無視されちゃったよ」
母の方を向くと、母がおもむろに話しかける。
「チビ、お前はお利口だねぇ」
はぁ?
「ちゃんと人がわかるんだねぇ」
はあ?

いまだに猫はわたしにとって理解に苦しむ存在なのだ。