経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

次なる金融危機とマクロ経済学

2018年06月17日 | シリーズ経済思想
 金融危機が起こるのは、人々が理不尽に行動するからだ。株や土地といった資産を、こぞって買えば値上がりし、それで儲かったと思って更に買うと、バブルが膨らむ。お金と言うか、信用と言うか、貨幣が膨張の限界に達したときに弾け、敗者を生んで、値は元へ戻る。人々が合理的に行動することを前提とする経済学は、これをどう位置づけるのか。スティーブ・キーン著『次なる金融危機』を読みつつ、考えてみたい。

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 ガラスのテーブルの上に、パチンコ玉で山を作ろうとしても、平たく広がるだけである。この場合、経済上の合理性とは重力だ。利益を追求する合理性が十分に作用していれば、理不尽に積み上がることはないわけである。ところが、金平糖のようにゴツゴツしている粒だと山ができあがる。粒子間に摩擦という分子間力が働くからだ。その山は、際限なく高くなったりはせず、積み上がっては崩れるという動きを繰り返す。

 バブル崩壊とは、かなり高く積み上がった山が大きく崩れる現象である。多くの場合は、小さく積み上がっては崩れることの繰り返しだが、時折、小さな崩れがない平穏な時間が続き、かなり高くなってしまうことがある。そして、わずかなきっかけから、位置エネルギーとして蓄えられた不合理が一気に解放される。こういう現象は、いつ崩れるかを予知するのは難しいが、必ず起こるとは言える。

 経済学において、ミクロとマクロが分けられるのは、粒子数が多くなると、粒子間の力が無視できなくなるからだ。ところが、主流派の経済学は、ミクロの利益追求の力だけで説明しようとし、分けることは正しくないと考える。「摩擦」は認めるにしても、雑多でランダムな力であり、総合すればゼロになる程度の弱いものと位置づけがちだ。所要の時間や過程をラチ外に置き、長期的には平らな合理的状況に至ると主張する。

 他方、非主流派のケインズ経済学は、理不尽な状況を現実として認めるものの、それが何の力によるのか、透徹した説明ができていない。ケインズ先生の不確実性の議論から進歩していないのだ。その力は、好機や危機に、不合理にも、過多や過少に投資してしまう人間の性による。人生は短いという変えようのない理由から、目先の利益や安心のため、長期的には理不尽な行動をしてしまう。しかも、秩序だって相互に作用しつつ。

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 非主流派たるキーンの『次なる』の白眉は、3つの変数と9つのパラメーターで組み立てられるシンプルなモデルによって、負債による危機を描き出し、格差の拡大を導くことだ。その上で、モデルのダイナミクスについて、「比較的平穏な期間を、嵐の前の凪以外のものとして受け取ることについて、警告している」とする。「利潤を超える投資には、金融による負債が当てられる」という非合理性を内蔵し得る前提を置き、高い投資性向の場合を考えるのだから、それは当然の帰結に思える。

 『次なる』で物足りないのは、利潤を超えて高い投資をする理由である。現実がそうだというのは分かるが、理性や経験によっても変更が不能なものなのかという問題である。また、リチャード・クーが主張するバランス・シート不況が現実にあるとしても、バーナンキやクルーグマンの言うところの「債務者と同時に存在する債権者」までが投資をしようとしないのはなぜかにも答える必要がある。

 結局、主流派の経済学を批判するなら、利益を最大化するよう行動するという中核的命題を崩さないといけない。むろん、本コラムは、人生が短い以上、分散が大きい場合、期待値に従った行動には無理があるため、ブームに乗って過大に投資したり、リスクを恐れて過小に投資したりすると考える。意図的に永続して利益最大化から外れるのだ。それは、宝くじや損害保険が理性や経験によって克服されず、消え去らないのと同じである。

 経済現象が複雑なのは、様々な要因があるからではなく、利益を最大化すべく投資しようとする力と、それとは逆向きの、ブーム便乗で大損の危険を取ったり、リスク回避で収益の機会を捨てたりする非合理の力がせめぎ合うためである。粒子の山が単調に平らたくならず、時に大崩壊を起こす複雑な動きを見せるのは、重力と粒子間力のたった二つがせめぎ合っているだけに過ぎない。

 そして、理不尽な行動は、貨幣や需要が媒介しているので、フィードバックも働く。いわば、山ができ始めると、粒子間の力が強まるようなもので、極めて激しい現象になる。そうすると、災厄を緩和するには、寿命に限りのない政府が貨幣と需要をコントロールするれば良いことになる。日本が1990年前後にバブルで踊ってもインフレに至らなかったのは、金融は緩くても、消費増税で緊縮をしていたからである。

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 ミクロからマクロへの理屈はどうあれ、為すべき政策はシンプルであり、不況に際しては、ケインズの不確実性を減らすため、有効需要を供給せよとなる。その理由は、需要リスクを不合理に恐れる投資行動を宥めるためで、賃金の下方硬直性などの構造問題を措定する必要はない。不合理さを見ないから、構造問題を探し、無暗に改革したくなる。また、需要不足にバブルで対処するのは、非合理を非合理で制しようとする危険な行為だ。

 キーンは次なる金融危機は避けられないとするが、政策次第に思える。膨張してしまった貨幣を資産課税によって消却できれば、スッキリするが、政治的には無理である。需要管理で実物経済を成長させつつ、緩やかなインフレと利子配当課税によって、徐々にGDP比率を下げるしかあるまい。第二次大戦後は、そうして巨額の政府債務を始末したのだし、民間債務も同じだろう。理論が邪魔をしなければ、いわば管理債務制度の確立は可能である。

※シリーズ経済思想は、間が1年以上空いたか。もう少し知りたい人は、「経済思想が変わるとき5」をどうぞ。消費増税前、需要の安定に拘る思想的背景を整理したんだよね。

(今日までの日経)
 老いる団地、地価下落。単身世帯 貯蓄ゼロ4割。

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