経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

経済学を人類に役立てるために

2013年01月13日 | 社会保障
 たまたまなのだが、年末年始は、ジュディ・ダットンの「理系の子」とトーマス・カリアーの「ノーベル経済学賞の40年」を並行して読むことになった。前書の全米科学オリンピックを目指す子供たちの真実探求と問題解決にかけるひたむきさと、後書の「経済学は、そもそも何を発見したのか、何の役に立つのか」という根源的な疑念に貫かれた内容は、痛烈なほど対照的だった。

 筆者も若い頃は、「常識的な知見を数式にしただけで、何がおもしろいんだ」と感じていたので、カリアー先生の疑念はもっともに思える。唯一、ケインズの「合成の誤謬」に触れたとき、「あぁ、この人は天才だ。現実の中に常識を超える知見を探し出してこそ、真の学問というものだろう」と感じた。そして、いまだ経済学は、これを超える「発見」をしていないのではなかろうか。

 こうなってしまったのは、個々の利益の追求が最大効率をもたらすとする「経済学」が、政府の介入や規制を否定し、自由を主張する道具として、あまりに魅力的だったからだろう。むろん、それが現実を写しているかどうかは別である。そうでないとしても、イデオロギーを正当化するだけで、十分に価値あるものだったことは確かだ。

………
 年金の世界では、親世代の給付を子世代が負担する「賦課方式」は優れた制度とされている。寿命が伸びる幸福に恵まれたとき、長い生活を支えるために子世代の負担を増やしたとしても、「損」をするどころか、「得」になる。常識的感覚には反するが、負担した分は、老後に還ってくるのであり、そのときまでに更に寿命が伸びていれば、負担以上に多くもらえることになる。

 残念ながら、この原理は、少子化が起こると上手くいかなくなる。しかし、これは本質的な問題ではない。少子化は究極的には絶滅に至る病であるため、必ず解決されなければならないからだ。一定期間だけの少子化で、ある水準で人口が安定するのなら、問題を起こさない年金制度を設計するのは簡単である。前世代より人数が少なく、負担が多くなってしまう世代の負担を、後に続く世代へ分散させることもできるからだ。

 むろん、少子化が止まらなければ、その技は使えない。しかし、「止まらない」とは、いずれは絶滅することを意味するので、年金制度どころか、あらゆる社会制度が成り立たない。その意味で、少子化が続くことを前提に年金制度を設計することは無意味であり、そんな暇があるなら、少子化をどこかの時点で止めることを、まじめに考えねばならない。

 例え話をすると、少子化とは船底に穴が開いて水が入ってくる状況である。浸水化に対応した社会作りとして、「早めに上の船室に移動しておけば良い」などという主張は危険ですらある。「財政赤字が大きいから、穴を塞ぐ作業は大概にしときましょう」というのも、ナンセンスとしか言いようがない。実際には、この手の主張が横行しているわけだが。

………
 長寿化によって高齢者の数が増えても、「損」をすることはないという経済学的な原理を理解していれば、世代間の不公平論は、まったく違った様相になる。若い世代が「損」をする原因は、少子化だけなのだから、高齢者の給付を減らせというのではなく、子育て支援を充実せよという主張になるのが自然だからだ。

 つまり、負担を巡って世代間で争う必要性は何もないということだ。賦課方式に関する経済学的な知見が確固としていれば、愚かな紛争は避けられる。その意味で、世界をより良い場所にするために、経済学は人類のために立派に役に立つ。常識を超えた、学問としての知見を、今こそ活用すべきなのである。

 しかるに、現実には、「高齢者は「得」をしている、若年者は「損」をしている」と常識論に訴えかけ、稚拙な経済運営による名目ゼロ成長の下、誰かを叩きたい荒んだ風潮に乗り、社会保障の圧縮と財政赤字の削減を煽り立てる者がいる。これでは、一体、何のための学問なのか。小さい政府のイデオロギーの虜となり、正当化の道具を磨くことに墜してはいまいか。

 賦課方式というのは、社会の永続を前提にすると、「得」する人だけが出るという、唯一ではないが、比較的、珍しい仕組みである。「タダ飯はない」といった、陳腐な常識論では計れないものだ。賦課方式は、本来、世代間の協力により、時間を超えて厚生を高める制度である。「政府は小さいほど良い」といった単純なイデオロギーの次元を超えている。

………
 以前にも書いたと思うが、今の経済学は、結核の特効薬ストレプトマイシン発見前の医学のようなものである。それまでの医学が治療のために栄養と休養を取るよう言うしかなかったのと同じように、不況に対して、金融緩和と規制緩和を唱えるしかなく、設備投資を導き出す「特効薬」を未だ持ち得ていないのが現状だ。したがって、上手く病を治せないからといって、経済学に意味がないわけではないし、バカにして逆のことをすれば、直る病も悪くしかねない。

 ただ、裏返せば、経済学の人類への貢献も、その程度とも言える。もし、「個人が合理的に行動する以上、経済全体も合理的であるはず」という方向へ逆走せず、ケインズの「合成の誤謬」を深めていれば、リスクにさらされて機会利益を捨てるという「わずかな不合理」が相互作用によって増幅され、恐慌さえも招くという知見に到達してたかもしれない。理工学では、よく見つかる現象の一つに過ぎない。

 経済学がなかなか前に進まないのは、イデオロギーの影響力が強いためだと思う。筆者は、それも承知なので、小さな政府や財政至上主義の論者であっても受け入れ易いよう、「若い人たちが、子育てのときに、それまで納めてきた年金保険料を引き出し、保育に使えるようにする」という形を作って、工夫したつもりだ。この程度は理解してほしいと思うよ。経済学における数少ない知見を人類の役に立てるという意味においてもね。


※社会保障論からノーベル賞が出ないものかと思ったりもするが、そのときは、ムハマド・ユヌス先生のように、経済学賞でなく、平和賞なんだろうね。むろん、そちらが本物のノーベル賞だ。
※世代間の負担論に興味のある人は、2011/11/28「世代間の不公平を煽るなかれ」とか、2011/12/3「世代間負担論の到達点」を見てもらったら良い。賛否は別にして、知っておくべきことだと思うよ。

(昨日の日経)
 覚えておきたい現代の名言・「強い者が勝つのではない。勝ったものが強いのだ」フランツ・ベッケンバウアー。

※日本人には、勝利至上主義より、「努力がもたらすのは勝利ではない。満足感だ。」なんていう方が似合っているのではないかな。「努力と誠実」の国なんでね。

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