kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

エネルギー

2015-09-13 | 陸上競技
人には前に進むためのエネルギーが備わっている。また自分を突き動かすためのエネルギーが備わっている。

前にも書いたことがあるがこれは「無尽蔵に生まれてくる」と思っていた。そしてそれが「当たり前」の事だと感じていた。が、数年前「エネルギーが尽きる」という感覚を味わった。これもblogに書いた記憶がある。前の記事に書いた「自分以外のために一生懸命になる」事が自分の中では普通の事であり、そんな事に関して考えた事もなかった。

しかし、この数年ふとした瞬間にエネルギーが切れてしまう感覚がある。私の事を理解してくださる方々には分かってもらえると思うが様々な場面でかなり活動的に生きている。何に対しても全力でやっていこうという姿勢がある。それは私の最大の長所であり、同時に短所なのではないかと思う事も増えてきた。全ての事にエネルギーを使い過ぎてしまい結局自分の中に何も残らなくなってしまう。本当に使うところに使えていないんじゃないかという気がしてきた。

年齢的な事もあると思う。若い頃は体力もありかなり無理をする事ができた。が、今はやはり違ってくる。これまでと比べて体力も低下してきているし、病気などにもなりやすくなってきている。本当に考えていかないと「大切な所」にエネルギーを使う前に私自身が果ててしまうやではないかという気持ちもある。いつまでも同じ感覚でやっていくわけにはいかないんだと痛感している。

どこにどれくらいのエネルギーを配分すれば良いか。これを考えるのはものすごく苦手。体力の配分を考える事はほとんどない。だから後でめちゃくちゃ疲れる。それはもう仕方ない事なのかなと思っている。が、その時の疲れが「心地良いもの」なのか「単なる疲労感」なのかで全く違ってくる。新しいエネルギーを与えてくれる「心地良い疲労感」であればまた新しい力を与えてくれる。これは気の持ちようなのかもしれない。何かをする見返りは「楽しい」と思えるかどうかだと。それ以上でもそれ以下でもない。

私の持つエネルギーを自分のために使う。これは苦手。自分が選手だった時にはそれが基準だった。いや、正確にはキャプテンとなってからの数年は自分のために使うエネルギーと組織を運営する&後輩を育てる部分に使うエネルギーは同等だったかもしれない。その頃から「他の誰かのためにエネルギーを使う」という事に楽しさを感じていたのかもしれない。

これはなかなか分かってもらえない感覚なんだと思う。誰にも分からないかもしれない。私自身の意志で私自身の行動を決める。エネルギーの使い方を選んでいきたいと思う。正確的に選んでエネルギーを使う事ができるかどうか分かりませんが。エネルギーを使うのはやはり私自身。自分の持っている「才能」は自分が選んだ所に使いたい。そして私の「能力」を必要としてくれる所で活かしていきたい。それは私のエゴなのかもしれない。

人が成長していく姿を見ていく。これが今の楽しみなのかもしれない。そういう姿を見ていると自分の中からエネルギーが湧いてくる感覚がある。以前のblogにも書いたが「太陽」のように自分の中から湧き出てくる部分があるのが私の特徴なんだと思っている。そこに到達するためにはいつも誰かの力を借りている。一生懸命に物事に取り組もうとする人達と関わることで自分のエネルギーが増えていく。これってすごく大切なことなんだと思う。

エネルギー。本当は限られているのかもしれない。それでも生きている間は最大限に使っていきたい。そう思う。
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率直な部分

2015-09-13 | 陸上競技
陸上に関するblogのつもりがここ最近は一般論のような内容になっている。これはどうなんだろうか。面白いと感じる人もいれば「小難しくて何の内容がわからない」という人もいると思う。当然ですね。私的には「思う事」を書いているだけなので。同じような内容が多くなる部分もあると思います。毎回毎回考え方が変わってしまう&スタンスが変わるわけではないので。当然といえば当然かなという気はしている。

あれこれ話をしている中で親しい指導者から「練習に行く必要はないからしばらく休めば良いのに」と言われた。体調の事もあり練習に行くとどうしても動いてしまう。前回の手術の後は「休む」という事が出来ず、股関節近くの切開した後の糸が切れてしまった。それにより傷口が開き腫れてしまった。そこまでして練習に行く必要があるのか?という部分。なかなか分かってもらえないかもしれませんが、こういう部分では「自分の事よりも他者を優先する」という行動をしています。

顧問だから当たり前だと言われるかもしれない。別にこのような行動で恩の押し売りをするつもりはない。が、こういう行為が「当たり前」だと思われて次からも同様の行動を求められると少ししんどいなと思う。好きでやっているのだから痛いとかなんとか言うなって思われるかもしれませんね。まー本当に「趣味」でしかないですから。ここに給与が発生しているわけではない。だからやってもやらなくても同じなのです。指導をしている事を偉そうにするなと言われたら本当にその通りかもしれませんね。

が、高校生が単独で練習をしていくのは難しいと思います。それも私の思い込みかもしれません。やろうと思えばできるかもしれない。エゴなのかもしれないが、やっぱり指導は必要だと思う。メニーだけを与えてやらせるだけではなかなか動きは変わらない。これも私がそう思っているだけで本当は違うのかもしれない。記録を上げていこうと思えばやはり「動きの改善」が一番の近道だと考えている。そのためにはその段階に応じた適切な指導が必要になる。それをある程度のレベルで出来るようになってきていると勝手ながら自負している。

「技術指導だけを求める」と言われると今のスタンスの指導は出来ない。クラブチームなどで指導する場合は「技術指導」に特化することもありだと思う。その中でも多少なりと基本的な事を求める。毎日見るわけではないからそこまで細かく求める事は出来ないが。クラブチームでは多少なりと「金銭」が発生している。保険なども含めて運営費などの部分。これは必要経費なので「受益者負担」となる。が、指導する側には一銭も発生しない。交通費なども自己負担となる。が、それを言い始めたらこのような事は出来ない。「ボランティア」の部分が大きいから。

部活動では実際に指導料を取る事などはない。教育活動の一環なのだから当たり前だと言われたら当たり前。都道府県によっては部活動の指導を教員の仕事から切り離して「外注」しようという流れもある。先日学校の練習を見に来られた大阪の先生も少し言っておられた。そういう流れの中で「部活動の意味」を考えされられるようになる。

手術をして自分の身体を酷使してでも練習に参加する必要があるのか?更には自分の子供の運動会に参加せずに大会の引率をするのが「当たり前」として求められるのは「正しい事なのか」というところ。これは誰かに言われてやる事ではない。担任があるのに自分の子供の入学式に参加した。これは「教師として不適切だ」と言われる。一生に一度の高校入学の時に担任が居ないというのは今後の高校生活を送るのに支障が生じるという批判。教師になった時点で「自己犠牲」は当然であり、自分のプライベートな生活は全て投げ捨てて「生徒のために生きろ」と求められるものなのか。

私は「生徒のために」「選手のために」という部分であればプライベートは全て投げ出している。これは当たり前ではない。このような価値観で指導をする人間の方が少ないと思う。これには自分自身の周囲の人間の理解も必要になる。今年も息子達の運動会には参加できない。子供達は「部活があるんやろ」と半ば諦めている。自分の子供には申し訳ないがこれまでも選手を優先させてもらってきた。これからもそれが私の中での「スタンダード」としてあり続けると思う。これも「押し売り」なのかもしれないが。

こういう姿勢がひょっとしたら生徒や選手の負担となるのかもしれない。それでも私自身では今のスタンスを変えずにやっていきたい。もちろん、私自身がその気がなくなればやらないが。このような考え方でやっていく人間というのはある意味「特殊」だと思う。それは分かっている。何か見返りを求めていたらきっとできないと思う。自分がやりたいからやっている。それだけだと思う。

私のスタンスを理解してもらうのは難しいと思う。それでも自分の中で整理するために書いておく。批判されるような内容ではないとは思っている。ひとまず記しておく。
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