毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
Happy Birthday ! (2)
今日、9月26日は、私の亡くなった母の誕生日だ。1936年9月26日生まれだから、生きていれば、今日で69歳になったはずだ。52歳で亡くなったから、もう17年間も会っていないことになる。そうか、葬式の時には、1歳に満たなかった息子が17歳になったのだから、当たり前のことだ。17年、私は何も変わらなかったような気がするが、子供達の姿を見れば、積み重ねた年月の多さには驚かされる。
母の生涯を語るのは簡単だ。材木商の五女として生まれ、何不自由なく育ち、20歳で私の父と結婚し、私を頭として2男1女をもうけ、52歳で死んだ。簡単だ。人の一生なんて、要するにこんなものだと思う。私のこのブログでのID、jukucho19580615 は、「1958年6月15日に生まれ、塾長を生業として生きてきた」という、私の半生を見事に要約したものとして、自分なりに気に入っているのだが、あとこれに私の死んだ年月日を付け加えさえすれば、私の一生を全て言い表すことができるだろう。変な戒名を付けられるより、ずっとその方がいいような気がする。ならば、墓碑銘も名前の下にこう彫ってもらおうか、「jukucho19580615-20xxxxxx 此処に眠る」なかなかいい考えだ。
しかし、52年の人生というのは、短いものだ。私が後5年しか生きられないわけだから、それは少々つまらない。別に取り立ててやりたいことがあるわけでもないから、無駄な時間を過ごすだけのような気もするが、それでもやはりもう少し長くは生きていたい。末期のすい臓がんと診断され、余命3ヶ月と宣告されてからの、母が日に日に衰えていく姿を見続けた私としては、死ぬのならあんな苦しみ方をしたくはない、とは思うのだが、最後まで頑張りぬこうとした母を思えば、決して諦めずに、少しでも長くこの世に生きていくのが人間の務めだとも思う。まあ、いざその立場に立ってみなければ、どうなるかなど私には分からないが。
母が、家族全員が、病と闘っているときに、母と私達兄弟が卒業した地元の小学校が、創立50周年を迎え、記念誌を発行することになった。私が学年の代表に選ばれ、同級生の現住所を調べ、記念誌に小学校の思い出を書くように要請された。母のことで、そんなことにとても構ってはいられなかったが、何とか調べ上げ、いい加減に書きなぐった文章を、提出した。以下にそれを記す。
僕は妙にひねた小学生だった。周りのみんなが坊ちゃん刈りをしていたのに髪を長くのばし、学校行事で校歌を歌うのがいやでいつも横を向いていた。それは何か特別な考えがあったからではなく、ポーズを決めようとしていただけなのは、野球の大会で自らのエラーもとで負けてしまった時、悔しくて涙が止まらなかったことからも分かる。つまり見栄ばかり気にしていても心は今よりもずっと純粋だったのだ。
人は様々な経験を重ね年をとっていくものだが、誰にでも、できることならもう一度戻りたい「永遠の夢のような時」といったものがあるはずだ。僕にとって、この小学校ですごした6年間がそれにあたる。何も考えず、一日中遊び回って、何もかもが楽しくいつも笑っていられた時ーー僕は心からの「懐かしさ」とともに振り返る。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ 中原中也「頑是ない歌」
母が生きていた小学生の頃、まさに私は王様のように毎日を謳歌していた。何もかもが自分の思い通りになり、笑っていられた時、それを「永遠の夢のような時」と表現したのだろうが、そんなときは二度と帰らない。17年たった今、「懐かしさ」とともに振り返ることはなくなったが、それでもふと母のことは思い出す。
母が最後に私に呟いた「お父さんを・・・」というメッセージを私は守って来たのだろうか。母の思いを父に伝えることを怠らなかっただろうか。
久しぶりに思い返せば、恥じ入るしかない。
母の生涯を語るのは簡単だ。材木商の五女として生まれ、何不自由なく育ち、20歳で私の父と結婚し、私を頭として2男1女をもうけ、52歳で死んだ。簡単だ。人の一生なんて、要するにこんなものだと思う。私のこのブログでのID、jukucho19580615 は、「1958年6月15日に生まれ、塾長を生業として生きてきた」という、私の半生を見事に要約したものとして、自分なりに気に入っているのだが、あとこれに私の死んだ年月日を付け加えさえすれば、私の一生を全て言い表すことができるだろう。変な戒名を付けられるより、ずっとその方がいいような気がする。ならば、墓碑銘も名前の下にこう彫ってもらおうか、「jukucho19580615-20xxxxxx 此処に眠る」なかなかいい考えだ。
しかし、52年の人生というのは、短いものだ。私が後5年しか生きられないわけだから、それは少々つまらない。別に取り立ててやりたいことがあるわけでもないから、無駄な時間を過ごすだけのような気もするが、それでもやはりもう少し長くは生きていたい。末期のすい臓がんと診断され、余命3ヶ月と宣告されてからの、母が日に日に衰えていく姿を見続けた私としては、死ぬのならあんな苦しみ方をしたくはない、とは思うのだが、最後まで頑張りぬこうとした母を思えば、決して諦めずに、少しでも長くこの世に生きていくのが人間の務めだとも思う。まあ、いざその立場に立ってみなければ、どうなるかなど私には分からないが。
母が、家族全員が、病と闘っているときに、母と私達兄弟が卒業した地元の小学校が、創立50周年を迎え、記念誌を発行することになった。私が学年の代表に選ばれ、同級生の現住所を調べ、記念誌に小学校の思い出を書くように要請された。母のことで、そんなことにとても構ってはいられなかったが、何とか調べ上げ、いい加減に書きなぐった文章を、提出した。以下にそれを記す。
僕は妙にひねた小学生だった。周りのみんなが坊ちゃん刈りをしていたのに髪を長くのばし、学校行事で校歌を歌うのがいやでいつも横を向いていた。それは何か特別な考えがあったからではなく、ポーズを決めようとしていただけなのは、野球の大会で自らのエラーもとで負けてしまった時、悔しくて涙が止まらなかったことからも分かる。つまり見栄ばかり気にしていても心は今よりもずっと純粋だったのだ。
人は様々な経験を重ね年をとっていくものだが、誰にでも、できることならもう一度戻りたい「永遠の夢のような時」といったものがあるはずだ。僕にとって、この小学校ですごした6年間がそれにあたる。何も考えず、一日中遊び回って、何もかもが楽しくいつも笑っていられた時ーー僕は心からの「懐かしさ」とともに振り返る。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ 中原中也「頑是ない歌」
母が生きていた小学生の頃、まさに私は王様のように毎日を謳歌していた。何もかもが自分の思い通りになり、笑っていられた時、それを「永遠の夢のような時」と表現したのだろうが、そんなときは二度と帰らない。17年たった今、「懐かしさ」とともに振り返ることはなくなったが、それでもふと母のことは思い出す。
母が最後に私に呟いた「お父さんを・・・」というメッセージを私は守って来たのだろうか。母の思いを父に伝えることを怠らなかっただろうか。
久しぶりに思い返せば、恥じ入るしかない。
コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )
« 酔いどれ芙蓉 | 祭りのあと » |
塾長さんのおっしゃる通り、人の一生というものは言葉一つで済むものだと私も薄々分かって来ました。しかしそのことが分かってきたからこそ、これからの人生に不安を感じます。今の私では言葉一つにするのにも足りません。
お誕生日おめでとうございます。
言葉一つで、人生を表わせるなんて、オヤジの戯言など、気にしないでください。
22歳といえば、何でもできる歳ですね。
何でもできるから不安なんでしょうが、逆に言えば、不安だから生きてるが楽しいような気がします。
真っ直ぐでずっと、見通しが利いた一本道の人生なんてつまらないですよ。
くねくね曲がって、いろんな障害があるからこそ、それを乗り越えようとあれこれ考えるわけですから、そこで成長していけるんだと思います。
まあ、あなたの2倍も生きてりゃア、これくらいのことは言えますが、自分自身に言い聞かせているようなものです。
「不安だから、面白い」
自分で言うのもなんですが、なかなかの名言ですね。
またどこかで使ってみます。
まだ・・・ポーズを決めたがってやがるっす・・・。
薔薇色の未来の星ちゃん
この後もっと、赤くなりました。
昨夜は、私も負けないくらい赤くなりましたが。
きれいな花ですよ。
たまたまたどり着いたのですが、
下記のサイトをお勧めします。
http://www.jibunshicafe.com/index.html
その場合、単純に実際のその人の姿を見た人の寿命+その人の寿命だとしたら、
きんさんぎんさんとか泉重千代さんが一番長生きかもしれないっすけど
(その人の寿命+小さいころにその人を見た子の寿命を足したら200歳くらいかもっす!)、
だけど、実際にその人をオンタイムで見たことなくっても、
ベーブルースが今も生きてるように、ゴジもずっとずっと生きていって☆いっす。
でも塾長だって、職業柄、「オレの忘れられない恩師はパゲっていう先生でね・・・」って
教え子がその子に語って聞かせて「へー、そんなパゲな先生がいたんだ」って
その子の中で生きていくかもしれないっすね・・・。
だから、がんばって☆いっす・・・。
近々、お年寄りと公園するんですか。
jukucho19580615-20xxxxxxの何倍も長く
生きられる可能性があるんだから、
がんばって☆いっす・・・って
ちょっと・・・言ってみた・・・だけっす・・・。
7日が、母の月命日なので、墓参りをしてきたものですから、なにか小ッ恥ずかしい気持ちになりまして・・・
亡くなって17年経ちますが、忘れた日は1日もないといったら大袈裟かもしれませんが、私の心の中では、今でも生きています。
(パゲ・・・!)
↑
お母さんに聞こえると悪いっすから、
気を遣ってコソコソ声で言ってみた優しい星ちゃん