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夕焼け

 今日は夕焼けが美しかった。西の空一面が朱に染まり、燃え上がるような趣があった。秋の空に夕焼けはことのほかよく似合う。
     
     夕やけ小やけの赤とんぼ
     負われて見たのは 
     いつの日か        「赤とんぼ」

 思わず口ずさんだこの童謡の歌詞で、「負う」 は「背中に負われて」という意味であるが、私は小さい頃から、「追われてみたのは」だとずっと思い込んでいた。赤とんぼが夕日の下で、虫取り網を持って追いかける少年達から逃げ惑う、そんな情景を思い描いていたのだが、いつだったか、歌詞を初めて読んだ時に、「負う」だと知って、ひどく驚いた。そうか、この詞は、作詞者(三木露風)が幼少の頃、誰かの背中に背負われて、真っ赤な夕日の下で赤とんぼが飛ぶのを見つめた、という思い出を歌ったものだったんだなと、耳から覚えていた歌詞の間違いを笑った。

     兎追いしかの山
     小鮒釣りしかの川
     夢は今もめぐりて
     忘れがたき故郷      「故郷」

 この唱歌でも、子供の頃、私が耳で覚えた歌詞は勘違いしたものだった。昔の人たちは兎を食べ、それがとてもおいしかったことを歌ったんだと勝手に曲解していた。これは長じて何人かの友人と話したことがあり、TVなどでも話題になることがあるから、多くの人が同じ間違いをしているのだろう。また、「かの山」「かの川」も固有名詞で、「鹿野山」とか「加野川」といったものがあると思い込んでいたのも、お粗末な話である。やはり歌詞というものは、耳で聞いて覚えるものだから、間違った解釈をしてしまうことが多いのだろう。
 もともと、日本語は音数が少ないために、同音異義語が多い。それが耳で聞いただけでは誤解を与える原因なのだが、それは同時に、ダジャレという文化を生み出す基にもなっている。一休さんが、「このはしわたるべからず」と書かれた立て札をものともせずに、橋の真ん中を堂々と歩いて渡ったというとんち話も、要するダジャレ話だ。
 近年、ダジャレを言うと、「寒い」だとか「オヤジギャグだ」などと言われて、なかなか辛い目にあうことが多いのだが、ダジャレこそ、人間関係を滑らかにする素晴らしい潤滑油だと、私は思っている。毎日コツコツ子供達に披露して、ダジャレ文化を広げようとしているが、反応はイマイチである。なんとか、世の若者達に、ダジャレを見直してもらいたいものである。
 などと、下らぬダジャレ論を言っているのは、ダジャレ(だれじゃ)?

  

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