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ナゴヤドーム

 SMAPのナゴヤドームでのコンサートが2日間終了した。2日目からは娘も加わって、親子2人でSMAP三昧の三日間となる。4時間にも及ぶ長丁場のコンサートだけに、SMAPのメンバーだけでなく、観客達もかなりの体力を使うことだろう。それを4日間も連続で繰り返そうという妻の体力は、底知れないものがあると感じてしまう。1週間前の大阪ドームでのコンサートの3日前に、自宅の階段を踏み外して左足を捻挫してかなり腫れ上がっていたにもかかわらず、コンサートに行きたいという執念と里芋の湿布で、何とか克服し、立派にハッスルしてきたのには、さすがスマヲタ、とその見上げた根性を陰ながら賞賛したものだった。
 だが、そうは言っても、やはりSMAPのメンバーの方がすごい。何と、香取慎吾は今日の「笑っていいとも」に生出演していた。日曜のコンサートを終え、名古屋泊で朝を迎えると、すぐに東京に行き、TVに出演した後、また名古屋に戻り、4時間のコンサートに全力を尽くす・・・少し考えただけでも、超人的な男だと分かる。コンサートの最中に、リーダー中居クンがそれに関して慎吾クンに、「いいとも」を休めばいいのにとか聞いたら、「休まない」ときっぱり答えたらしい。さらに、その場で決めたしぐさを、「いいとも」の中ですると、ファンの前で宣言したそうだ。どんなしぐさなのかは、私には教えてくれなかったが、娘と妻がTVを見ながら、キャッキャと嬉しそうに騒いでいたから、きっと約束は果たしたんだなと思う。この辺りにSMAP人気が衰えない秘密があるかなと、密かに私は思うのだが、火曜日は中居クンが「いいとも」に出演する日だから、また何かやってくれるかもしれない。
 しかし、今の愛知県は人でごった返している。昨日帰省してきた娘が、名古屋駅の混雑ぶりは尋常ではないと言っていた。勿論SMAPファンだけではない、愛知万博がらみの人出が中心となっているのだろう。なにせ、今週末の25日の日曜日で会期が終了してしまう万博は、駆け込み入場する人であふれ、日曜日など28万人の入場者を数えた。安全を考え、入場制限が行われたらしいが、この連日の大盛況で、総入場者数が2000万人を超え、85年のつくば博を上回ったと報道されていた。私の周りでは、やっと朝夕涼しくなってきたのだから、会期が延長されればもっと楽に行けるのに、という声がしきりに起こっている。私自身も、もうちょっと延長され、昼でも涼しく感じられる頃まで開催されていたなら、足を運ぶかもしれないなと思わないでもない。ペットボトルの持ち込みが、小泉首相の一声で許可されたように、再び彼が、「会期を1ヶ月間延長しろ」と声明を出したなら、これほど圧倒的な力を掌握したように見える彼の威光に、万博協会が平伏して、急遽延長が決まるなんてことがあれば面白いなと、密かに期待している。
 今夜のコンサートには、妻と娘の他に、私の57歳と58歳の従姉も加わった。声をからして熱狂したらしいので、明日から体の節々が痛くなるのではないだろうか。これほど、年齢を忘れて盛り上がることのできるSMAPのコンサート、さすがに多くの人を集めるだけの理由があるようだ。
 SMAPのメンバーが、4日間のコンサートを終えた翌日に、万博会場を訪れるという噂があるらしいが、かなりの眉唾物だと妻は笑い飛ばしている。さて、本当のところはどうでしょう。
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娘が帰って来た。

 娘が帰って来た。明日から、スマコンに3連荘で参加するためだが、その後に何と、イタリアに友人と行く予定で、その荷造りもかねての帰省だそうだ。イタリアには、かねてから興味があるらしく、大学での語学履修の選択の際にもイタリア語を選択しようとしたくらいだから、結構本気なのかもしれない。何だか、サッカーのセリエAだとか、車のアルファロメオだとか、イタリア通のようなことを言っているから、私としては浅薄な知識で物を言うなよと叱責したくなるが、彼女としてはマニアのつもりらしいので、言い出せないでいる。元来理屈っぽいところがある娘だから、なかなか御しがたいのだが、それでも親の欲目か、可愛いところもあって、帰ってくる度に大歓迎してしまう。女親は男の子が可愛いのは、うちの妻を見ていても実感できる。それなら、男親が娘のほうを息子よりも可愛いがるかと言えば、そうは言い切れない気もするが、妻に言わせれば、私は娘に大甘らしい。確かに、今日の私の心の湧き立ちぶりからみれば、妻の指摘も納得できる。
 そもそも、私は第一子に男の子が欲しくてたまらなかったため、妻のお腹の中にいるのが女の子だと分かった時は思わず落胆の意を表してしまったが、生まれてくれば性別など関係なく、慈しみ育ててきたつもりである。幸いなことに、娘は、何をやらせてもそつなくこなすだけの能力を持ち合わせていたため、面と向かって罵声を浴びせたことはあまりない。彼女の望むことには何でも答えてきたつもりだが、当人にしてみれば不満を感じたことも多々あるだろう。だが、その親子の心のすれ違いこそが、子供を成長させるバネになるものだから、あえて親として至らなかったとは思わないし、むしろ、先回りして私の気持ちを押し付けてしまったことの方が多いような気がする。自分の身を振り返ってもそうだが、親子の関係なぞ、所詮は人間一人一人の関係に過ぎず、千差万別であって、これこそが理想なんてものはありはしない。要は、親子それぞれがどれだけ納得できる関係を築けるかにかかっているのだと思う。
 帰宅した娘に、今日は望外なサプライズが待っていた。私の父、娘にとっては祖父が自分の車(半年前に買ったばかりの日産マーチ)を成人のお祝いにやると言い出したのだ。なんでも株で儲かったため、農作業用にはいささか都合のよくないマーチを買い換えようと思い立ったらしく、娘にそれを譲ろうと決めたらしい。娘はその話を、祖父から聞いて狂喜乱舞したらしいが、その喜びようが祖父には嬉しかったらしく、始終ニコニコしていたという話だ。(私は例の如く、ビールをあおって寝ていたため、その辺りの事情は、詳らかではない)京都にその車を持っていくわけには行かないが、マイカーができた娘は本当に嬉しそうで、見ている私のほうも、心がうきたってきた。
 今日は敬老の日で、私の住む地区でも敬老の催しが開かれたが、子供達とのふれあいがうまく演出されているようなので、参加された方たちは楽しい時間を過ごされたことだろう。我が家ではそれに合わせたかのように、娘が帰省することで家族中に笑顔が広がった。彼女の力は絶大だなと、再認識したが、これから先色々と物議を醸す存在になるだろうなとも改めて思った。
 とりあえずは、イタリアから無事に帰ってきてもらいたい。かの国は、結構治安が悪いと聞きもするので、若干の不安があるだけに旅行のつつが無しを願うばかりである。
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暗黒面

 「スターウオーズ・エピソード3」を見に行こうとずっと思っているのだが、なかなか時間が取れない。しかも、上映時間が縮小されて、私の都合のいいときに観られないので、余計に難しくなってしまった。もう少し待てばDVDが発売されるから、それを見ればいいじゃないかとも思うが、過去5作を全て映画館で観たことがちょっとした自慢で、塾の生徒達にもそれを吹聴したりしているので、なんとかして時間を作らなければならない。
 今回のエピソード3は、アナキン・スカイウオーカーが何故ダースベーダーとなったのか、さらに言えば、フォース(理力)の下にあったジェダイ(騎士)が、どうしてダークサイド(暗黒面)に落ちたのかが、主要なプロットの1つだと巷間漏れ聞いている。しかし、この理力と暗黒面という2つの対立する観念については、スターウオーズを全く離れて考えても、なかなか興味深い。暗黒面とは、人間の持つ邪悪な面の集合体であり、決して他人には見せられない、個人個人が密かに持つ、心の闇とでも呼ぶべきものであろう。そこには、怒り・悲しみ・恐れ・嫉み・狂気など人が持つ様々な煩悩が、何らの装飾も帯びずに、謂わば、むき出しのままうごめいていることだろう。
 私は仏教徒ではないし、何か他の宗教に帰依しているわけでもない、全くの無宗教な男である。己の依って立つところは己のみ、と少々口幅ったいことを自らの処世訓としているが、仏典の人生観、人間観にはいたく感銘を受けてきた。また、中学・高校と浄土宗系の学校に通っていたため、宗教の時間などで、仏教用語には若い頃から接する機会が多かったので、煩悩という言葉にも大雑把な説明を施すことができる。
 「煩悩とは、心身を悩ます一切の精神作用の総称であり、貪欲(むさぼって飽きないこと)・瞋恚(怒りうらむこと)・愚痴(ものの理非の分からぬこと)の三つは三毒と称し、その最も根源的なものである」
 事典から、引っ張り出してまとめただけであるが、これだけではよく分からない。このよく分からない点を、噛み砕いて私達衆生にも分かるように説くのが僧の役割だと思うが、ここでは望むべくもないので、私なりの解釈をしてみよう。
 「人間は生まれて死ぬものである。それは誰も逃れないようもない宿命であり、その限られた命をそれぞれが懸命に生きようとするために、心の中に様々な感情が生まれる。しかし、その感情全てが昇華されるはずもなく、不完全燃焼のまま残ったものがくすぶり続け、その過程で生み出されてくる心の葛藤が煩悩なのである」
 例えば、今現在私が抱えている煩悩で説明してみよう。
 岩波書店から9月27日に夏目漱石直筆の「それから」の原稿の復刻版が、限定320部出版されるが、価格が何と168,000円であるため、非常に悩んでいる。すなわち、この本が欲しいという感情が芽生えて、そのまま一気に買ってしまえば、喜び意外何にも残らないが、あまりの高額さに大いに逡巡しているのだが、買いたいという気持ちを捨てきれず、悶々として気が晴れない今の私の心持こそ、煩悩で満たされていると言ってもいいだろう。
 この暗黒面にどっぷり浸かった私を、そんな無駄使いをしている場合ではないだろう、そんなお金があるなら、娘や息子の教育費・生活費に回すべきだろう、と我に返らせてくれる力が理力なのであろうか。こう考えてくると、確かにダークサイドには人を痺れさせる甘さが満ちている。それにひきかえ、フォースは光に貫かれてはいるが、私のような凡人には少々眩しい。さあ、どうする、このまま暗黒面に引きずられて大枚はたいてしまうか、それとも、現実の壁の中でわき目をふらず、真っ直ぐ歩いていくか、さあ、どうする!!
 
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虫のこえ

 自然に恵まれたところにすんでいるお陰で、毎夜毎夜虫たちが大合唱を聞かせてくれる。私の寝室の向かい側は、山の斜面となっているため、草むらからの虫の声を全身に浴びながら眠る状態になる。心を落ち着け、じっと虫の音に耳を傾けていると、すっと眠りに落ちていけるから、私にとっては快い子守り歌となっているのだろう。秋の虫たちの声は、真夏のセミの大音声と違って、いくら絶えず聞こえてきても、うるさいとは感じずに心にじんわり響いてくる。それは、セミの声が真夏の暑さを増幅させるような不快感を、時としては与えるのに反し、秋の虫たちの声は秋の夜長の静謐さを、聞く者の心の中にゆっくりと染み入らせるからではないのだろうか。
     
     1 あれ 松虫が鳴いている
       ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
       あれ鈴虫も 鳴きだした
       りんりん りんりん りーんりん
       秋の夜ながを鳴き通す
       ああ おもしろい虫の声

     2 きりきり きりきり こおろぎや
       がちゃがちゃがちゃがちゃ くつわ虫
       後から馬おい 追いついて
       ちょんちょん ちょんちょん すいっちょん
       秋の夜ながを鳴き通す
       ああ おもしろい虫の声       「虫のこえ」

 この歌を基にして、窓の外から聞こえる虫の声を、どんな虫が鳴いているのか聞き分けようとしたが、よく分からない。「ちんちろちんちろ」と弱い音が時々聞こえるから、松虫はいるだろう。「すいっちょん」とゆっくり鳴くのもいるから、馬おいもいるのだろう。「がちゃがちゃ」「きりきり」はもうごちゃ混ぜになって判然としないのだが、きっとこおろぎやくつわ虫もいることだろう。まさに虫のデパートだ。さらには、中学生から聞いた話によると、キリギリスもかなり大量にいて鳴いているらしい。写真の虫もキリギリスだと思うが、どういう訳か、時々塾舎の窓にへばりついている。ヤモリやカマキリが虫を捕るために登場するのは理解できるが、キリギリスが何のために窓ガラスの上でじっとしているのか、皆目見当もつかない。ただ、彼らが夜のオーケストラの重要な役割を担っていることは確かだと思う。
 しかし、鈴虫の声はほとんど聞こえない。リーン、リーンと本当に鈴が鳴るように聞こえる彼らの音は、人工飼育された鉢の中からしか聞いたことがない。私の家でも、何年か前に知り合いから分けてもらった鈴虫を育てたことがある。盛りの時には、元気よくリーンリーンと鳴いて、風流な趣を味あわせてくれたのだが、秋が深まるにつれ、一匹一匹姿を消していったのには驚いた。なんでも、メスが卵を産むための栄養分として、オスを食べてしまうからだそうだ。いくら自然の摂理とはいえ、私達の耳を楽しませてくれた、まさにその鉢の中で、過酷な現実が繰り広げられていたのだと思うと、少なからず辟易して、翌年からは飼育するのは止めてしまった。生き物を飼うのは、その死まで受けとめてやることだとは頭で分かっていても、いざ目の前にしてしまうと、尻込みしてしまうのは人間の身勝手さなのだろう。
 さあ、今夜も虫たちの音に包まれて、心地よい夢が見られますように。
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なぜ働くの?

 少し前に迷い込んだ知らない人のブログに、「自分の資産を1億円にしようと思ったらどうする?」と題したアンケートがあり、答えとして、①節約する ②稼ぐ③投資 ④その他(教えてください)とあった。私は迷いなく④を押して、「何か悪いことをしなければ1億円は貯まりませんよ」と書き込んでおいた。本当に、その通りだ、まともに働いているだけで、1億円も貯まるわけがない。そんな金額のお金が欲しいなら、違法行為を犯すか、法律すれすれのことをするしかないじゃないかと、思わず突っ込みを入れたくなってしまう。今度の総選挙で小泉自民党がこれほどまで大勝してしまうと、消費税やら何やらが増税されて、ますます「働けど働けど我が暮らし楽にならざり じっと手を見る」という石川啄木状態になってしまうんだろうかと、暗澹たる気持ちになるのは、私だけであろうか。
 何のために働くかと問われて、人はどんな答えをするのだろうか。私はそれに「働かなくてもよくなるために働く」といささか禅問答じみた答えをする。私は基本的に怠惰な男である。できることなら、何もせずにブラブラしていたい。しかし、ブラブラするにもお金はいる。何もしないでいても、人の業として、生きている以上は食わねばならぬ。食うためには、お金がいるのが現代だ。しかも私は、贅沢なことに、おいしいものが食べたい、おいしいビールが飲みたい。どうしたってお金がたくさんいる。お金を手に入れるためには働かなくてはならない。だが、働くにはなかなか気力がいるし、気力を生み出すにはそれなりの動機が必要だ。だから私は、「もう働かなくても十分遊んで暮らせるだけのお金を貯めるために、必死になって働こう」と、ある時期に決めた。それ以来、働くことに迷いがなくなった。なくなったが、同時に時間もなくなった。働いて、働いて、少しでも多くのお金を貯めようと仕事に励んだおかげで、遊ぶ時間をなくしてしまったのだ。しかも、運の悪いことに、いくら必死になって働いても、お金は一向に貯まらない。貯まらないから、ますます一生懸命になって働く。すると、もっともっと遊ぶ時間がなくなって・・・。あーあ、もう嫌だ!書いているうちに本気で嫌になってきた・・・
 しかし、メジャーリーグの選手たちは、何故あんなにも真剣にプレイするのだろう。松井秀喜がアメリカに渡って、本格的にメジャーの試合を見るようになって、一番最初に驚いたことは、何億円もの年俸を手にしている一流選手達が、1つ1つのプレイに決して手を抜かないことだ。誰が見てもアウトだと思える内野ゴロでも一塁まで全力で駆け抜ける。追いつけそうもない打球に、必死の形相で飛びつく。彼らをそこまで駆り立てるものは、いったい何だろう。幾ら大金を手にしても、彼らはさらなる大金を貪欲に目指して、必死になるのだろうか。いや、それは下衆の勘繰りというものだ。勿論、お金のためというのは彼らにとって重要な動機付けなのだろうが、それだけでは一流と呼ばれる選手には、絶対になれないと思う。それに加えて、選手として1つでも上の段階を目指す向上心が、彼らを突き動かしているのだと思う。松井も、あのまま日本に残ったとしても、今ヤンキーズで得ているのと同等の年俸は得られただろう。しかし、彼はそれに安住しなかった。自らを高めるために、一段高いフィールドに立つことを望んだのだ。その強い意志があるからこそ、彼はメジャーでも一流選手の仲間入りをすることができただろうし、これからも更なる境地を目指して飛躍していくことだと、私は信じている。
 漱石の「それから」の中で、仕事で失敗し東京に戻ってきた友人を、代助が次のように評した。
    「つまり食うためにはたらくからでしょう」
 また、「食うための職業は、誠実にゃ出来にくいという意味さ」
でもなあ、私あたりの程度の人間じゃ、お金のために働くしかできないんだよなあ、悲しいことに。
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夕焼け

 今日は夕焼けが美しかった。西の空一面が朱に染まり、燃え上がるような趣があった。秋の空に夕焼けはことのほかよく似合う。
     
     夕やけ小やけの赤とんぼ
     負われて見たのは 
     いつの日か        「赤とんぼ」

 思わず口ずさんだこの童謡の歌詞で、「負う」 は「背中に負われて」という意味であるが、私は小さい頃から、「追われてみたのは」だとずっと思い込んでいた。赤とんぼが夕日の下で、虫取り網を持って追いかける少年達から逃げ惑う、そんな情景を思い描いていたのだが、いつだったか、歌詞を初めて読んだ時に、「負う」だと知って、ひどく驚いた。そうか、この詞は、作詞者(三木露風)が幼少の頃、誰かの背中に背負われて、真っ赤な夕日の下で赤とんぼが飛ぶのを見つめた、という思い出を歌ったものだったんだなと、耳から覚えていた歌詞の間違いを笑った。

     兎追いしかの山
     小鮒釣りしかの川
     夢は今もめぐりて
     忘れがたき故郷      「故郷」

 この唱歌でも、子供の頃、私が耳で覚えた歌詞は勘違いしたものだった。昔の人たちは兎を食べ、それがとてもおいしかったことを歌ったんだと勝手に曲解していた。これは長じて何人かの友人と話したことがあり、TVなどでも話題になることがあるから、多くの人が同じ間違いをしているのだろう。また、「かの山」「かの川」も固有名詞で、「鹿野山」とか「加野川」といったものがあると思い込んでいたのも、お粗末な話である。やはり歌詞というものは、耳で聞いて覚えるものだから、間違った解釈をしてしまうことが多いのだろう。
 もともと、日本語は音数が少ないために、同音異義語が多い。それが耳で聞いただけでは誤解を与える原因なのだが、それは同時に、ダジャレという文化を生み出す基にもなっている。一休さんが、「このはしわたるべからず」と書かれた立て札をものともせずに、橋の真ん中を堂々と歩いて渡ったというとんち話も、要するダジャレ話だ。
 近年、ダジャレを言うと、「寒い」だとか「オヤジギャグだ」などと言われて、なかなか辛い目にあうことが多いのだが、ダジャレこそ、人間関係を滑らかにする素晴らしい潤滑油だと、私は思っている。毎日コツコツ子供達に披露して、ダジャレ文化を広げようとしているが、反応はイマイチである。なんとか、世の若者達に、ダジャレを見直してもらいたいものである。
 などと、下らぬダジャレ論を言っているのは、ダジャレ(だれじゃ)?

  

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未練について

 「未練がましい」、「未練たらしい」、どちらも未練が残るさまを言う形容詞である。『未練』とは、「思い切りの悪いこと。心の残ること。あきらめられないこと」であり、これに接尾語「がましい」「たらしい」がつくと、意味はともに「いかにも未練らしい。いかにも思い切りが悪いさまである」となる。では、この接尾語「がましい」「たらしい」の意味はといえば、「がましい」---「動詞の連用形、体言、副詞などに付いて、その状態や物に似ている意を表わす。・・らしい。・・のきらいがある。・・の傾向がある」用例としては、「弁解がましい・批評がましい・恩着せがましい」などである。また、「たらしい」---「名詞や形容詞・形容動詞の語幹について、形容詞化し、いかにもそのような感じがする、その性質が強い、の意を表わす。感じのよくない場合に言う」用例は「貧乏たらしい・嫌味たらしい・憎たらしい・好かんたらしい」などがある。用例をみるだけで、気分がげんなりするような言葉ばかりだが、要するにいい意味を表わす接尾語ではないようだ。
 ならば、どんなときにこの言葉を使うのだろう。例えば、重い病に罹りどうしようもなくこの世を去らねばならなくなったとき、人はこの世に未練を残すだろう。まだ生きたい、生きなければならないというときに、「未練が残る」とは言うだろうが、「未練がましい」「未練たらしい」とは言わない。そんな言葉を使ったとしたら、真剣に生きようと願う人に失礼だ。生き死にに関しての表現としては不適切だ。やはり、これはこの形容詞が向けられる人を非難するときに使う言葉なのだろう。例えば、盗塁を失敗した選手がいつまでもアンパイヤーに文句を言っているとき、「未練がましい選手だな」などと非難したりするだろう。だが、この言葉がもっとも正鵠を得た表現となるのは、男女間の心のやり取りを表わすのに使われるときだろう。シチュエーションを考えてみると、
 男Aと女Bが恋愛関係にあったとしよう。突然BがAに別れを告げる。突然と言っても、Bにとっては何度も考えた挙句のことであり、Aにとってのみ、まさしく寝耳に水といった状態である。Bはさっぱりとした気持ちでいられようが、Aにしてみれば釈然とせず、何でだと自問する日が続く。幾ら思い切ろうとしても、Bのことを思えば思うほど、思いは募り如何ともしがたくなる。こうした状態のことを、客観的に見れば、「未練がましい」「未練たらしい」と形容するのであろう。Aからすれば不条理なことであり、何とか考え直してくれとすがったりもするが、Bにしてみれば、「未練がましいヤツ」となって、ますます疎まれることになってしまう。その人情の機微が理解できずに、ストーカーまがいの行為に走る者もいるので、男女の心のすれ違いというものは、一旦亀裂が生じてしまうとなかなか修復はできないようだ。
         
         男と女の 間には
         深くて暗い 川がある
         誰も渡れぬ 川なれど
         エンヤコラ 今夜も 舟を出す
         Row and Row
         Row and Row
         振り返るな Row Row   (「黒の舟歌」)

 女性は、一度別れた相手に二度と思いを寄せることは少ないという統計があるが、反対に男はいつまでも引きずるものらしい。いくら心の中で葛藤があろうとも、別れた女性のことをいつまでも女々しく思うのは男らしくない。何度も別れを経験しなければその境地には達せないのかもしれないが、男は未練など引きずってはならない、いや、引きずらないような別れ方をしなければならない。(とあまり別れを経験したことがない私が言うのも変だな)
 
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お絵かきロジック

 「お絵かきロジック」というパズルがある。細かく碁盤の目のように仕切られたマス目を鉛筆で塗っていって、一つの絵を完成させるというパズルである。勿論、ただ漠然とマス目を塗ればいいのではなく、タテ・ヨコのマスの外に並べられた数字の分だけマス目を塗っていく。例えば、ヨコ列15マスある所で、2・5・3とあったなら、左から2マス、5マス、3マスをこの順に塗っていけばよいのだが、15マス中、2+5+3=10、さらに間に入るマス目を1つずつとったと考えても、10+2=12にしかならないので、全てここだと断定することはできない。従って、ここからがこのパズルのコツなのだが、仮に、左端から2マス塗り、1マス空け、5マス塗り、1マス空け、2マス塗ると考えて、うすく印をつけておく。次に、右端から同じ作業を繰り返し、3マス塗り、1マス空け、5マス塗り、1マス空け、2マス塗ると考えてうすく印をつける。こうすると、左から考えたものと右から考えたものとで印が重なる箇所ができ、それは塗ってもいいマス目だと確定できる。この場合は、左から7番目と8番目がそれに当たるマス目となるから塗ることができる。この要領さえつかめれば、タテ列とヨコ列でこれを繰り返していって、指定されたマスの数だけ全部塗ることができれば、絵が完成する。
 タテ10・ヨコ10(10×10)くらいのロジックなら、数え間違えさえしなければ簡単に仕上がるのだが、慣れてくるとマス目が多いものに挑戦したくなり、55×50くらいになると、かなり苦労する。何度か失敗することは覚悟の上で、根気よく向かっていかなければならない。たかが遊びと思っていても、かなりの集中力と忍耐力が必要なパズルであり、己の心を落ち着かせるには、なかなか有効な遊びであると思っている。
 写真のものは、B4用紙を2枚横につなぎ合わせた大きさの紙に出題された55×120のロジックを、私が完成したものである。これは、偶然高校生が持っていたロジックの雑誌に付いていた物を私がもらったものである。「こんな難しいのはできないからあげるよ」と快くくれた彼の好意に報いようと、こつこつ努力を積み重ね、1ヶ月近く掛かって出来上がった。これをもらったのが夏休みに入ったばかりの頃であり、私にとっては、まさに忙しさの絶頂期であったにもかかわらず、「こんなの俺に任せれば簡単だ」と豪語した手前、どんなことがあっても夏休み中に完成させようと、半ば意地になって、半ば自棄になって、毎日5分でも10分だけでも、と本当に亀の歩みのように進めていった。
 不思議なことにこれだけの大作でありながら、ほとんど途中で失敗することなく順調に出来上がった。出てくる絵柄がスターウオーズだということは始めから分かっていたが、進んでいくうちに、R2D2、C3POなどが順々に目に見えるようになって来て、次は誰が出てくるかなとワクワクするようになった。最後に中央のアナキン・スカイウォーカーが完成して、作業が完了したときには心から達成感を味わうことができた。深夜過ぎではあったが、ちょっとだけ、祝杯を挙げてしまった。
 翌日やって来た高校生に、完成品を見せたところ、全員が感嘆の声をあげたので、誇らしい気持ちに浸れた。しかし、こんなことがうれしくてたまらない私はいったい何者なのだろう。こっ恥ずかしい気もしないでもないが、そんなことより、スターウオーズ、早く見に行かなきゃ、終わっちゃうよ。
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選挙速報って楽しい

 総選挙が終わった。直近の世論調査では、自民党の有利が伝えられていたが、結果は、予想通り自民党の歴史的大勝利となった。観客の立場としては、もう少し波乱があったほうが、色々と面白かったかなと思わないでもないが、まあ、この結果がよくも悪くも、厳然とした現実であるから、選ばれた議員諸氏が己の良心に従って、我々日本国民のためによりよい政治を行うよう努力してくれることを願うのみである。(でも、日本国民の誇るべきバランス感覚が、今回はちょっと一方に傾きすぎたかな)
 私は、選挙戦そのもには余り興味がもてないが、投票直後から始まる開票速報をTVで見るのが何よりの楽しみである。別に特定政党を応援しているわけでもないので、どこが勝とうがあまり関心はないのだが、(と言っても、投票はしてきたので、せっかくなら名前を書いた候補者が当選してほしいと少しは思う)各選挙区で刻々発表される開票速報を見ていると、何故だかワクワクしてくる。早々と結果が決まってしまう選挙区は問題外だが、最後までデッドヒートを繰り広げ、夜中過ぎても結果が分からぬような選挙区に注目していると、楽しくてしょうがない。時折選挙事務所が中継で映し出されたりして、支援者の必死の形相を目にするのは、傍観者としては、この上なく可笑しい。真剣な人々を笑うなどと、不謹慎極まりないことは百も承知だが、そこまで候補者に肩入れする彼らの心情が不思議でもあり、ある意味可愛らしくもある。私の父は、「選挙なんてものは、他人の就職活動だ。そんなものに血道をあげる奴らの気がしれない」と嘯いているが、父は父なりに開票速報は楽しみらしく、深夜までああだ、こうだと言いながら、私と一緒にTVの前に座っている。
 父のこの言葉は、選挙の本質をついていて、言い得て妙だと、私も気に入っているが、自分の損得勘定からにせよ、或いは純粋にその候補者を推しているからにせよ、一生懸命になってくれる支援者がいてこその候補者であると、選挙のたびに思う。問題なのは、候補者が当選して議員になってしまうと、支援者のためにという初心を忘れ、己の属する政党のために活動し始めることだ。政党の論理で物を言い始める彼らを見ると、空しさを感じる支援者は少なくないだろう。
 私にも、今から20年近く前に選挙活動に加わった体験がある。市会議員を4期務めた、私の母方の伯父の、3期目と4期目の選挙戦の手伝いをしたのだ。選挙戦と言っても、当時はまだまだ、いかに地域の票をまとめ切るかに焦点が集まる、まさに地縁・血縁中心の選挙であったため、地元に張り付いて、選挙カーの運転、電話での投票依頼など、裏方の仕事を手伝った。それだけでも、なかなか貴重な体験をしたと思っている。市会議員は地域の代表であり、地域の声を市政に反映させるには地元の議員が必要だという、誰もが納得できる大義名分があるため、自然な気持ちで応援できた。それでも、選挙運動を進めるうちに、是非とも当選させたいという気持ちが募り、開票の時には、事務所でドキドキしながら結果を待っていたのを覚えている。その時に味わった高揚感が、私の開票速報好きの基になっているのかもしれない。
 私は、今回の選挙戦ではほとんど喧騒を味あわなかった。だが、厳しい選挙戦の末に議員に選ばれた人たちが、地域住民の負託に応えるため、ひいては日本国民全体の利益のために、これから一生懸命汗を流してくれるよう願っている。

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双子(3)

 昨日と今日は、私の住む市が、全市を挙げてのお祭りで、私も少なからず祭り気分に浸っているが、今年は万博の影響か、規模が縮小された感が否めない。たかが万博ごときで、伝統あるお祭りをないがしろにされてはたまらないと、この市を離れたことのない私は憤っている。まあ、もともと大したお祭りじゃないだろうと言われれば、頷くしかないが。それでも、当地の数少ない名物行事として、生粋の地元民は誇りを持っているだけに寂しい気持ちは隠せない。確かに、交通渋滞など、万博優先にすれば面倒な行事なのだろうが、効率優先ばかりではなく、もう少し血の通った市政を行わないと市長を辞めさせるよなどと、なんの力もない私がここでうなったところで、全く影響がないけれど・・

 それでも、お祭りとなれば、我が家にもお客がやって来る。弟夫婦と双子達だ。3週間ぶり会った子供達は、意外に早く慣れてくれて、ヨタヨタ家中を歩き回る。どこに行くのか分からないので、必ず子供1人に大人が1人、後ろから付いていく。傍から見ていると鬼ごっこをしているようだが、後ろに付く者は油断できない。なにしろ、目に付いたものは拾ってすぐに口の中に入れてしまう。2ヶ月ほど前に贈った『ネコバス積み木』を持ってきていたが、見ると赤や緑がかじられたようにはげている。目で見て確認する前に口の中に入れて確かめる、という動物の原初的な物の識別法を教えてくれているようで、笑えて来る。
 食べるといえば、昨夜は『メジャー松井サブレ』を奮発して開封してやった。妻の友人が、松井秀喜の館へ行ったお土産に私のために買ってきてくれたものだ。箱に松井の絵が描いてあり、サブレにも同じ絵が焼き付けてあるが、似ているようで似ていないその絵が、何ともいえぬ安っぽさを醸し出していて可笑しい。子供達は小さく割ってもらったものを食べていたが、テーブルの上に置いてあった『うなぎパイ』を見つけて、母親にせがんで食べ始めた。どうやらそちらの方がおいしいようで、いつしか『松井サブレ』は放擲されてしまった。子供は正直であるから、『松井サブレ』にはもっと味の研究をするよう、投書かメールでもしたいくらいだ。
 食事の後、祭りの夜の恒例となっている花火大会を見るために、外に出た。『大花火大会』と銘うってあるが、花火など単発的にしか上がらない。真夏の頃に各地で行われる本当の『大花火大会』を見慣れた人たちには全く物足りないだろうが、夜空にポーン・ポーンと間をおいて上がる花火は、かえって哀愁を誘って私は好きだ。だが、子供達には何の興味も引かなかったようで、最後まで見ずに途中で帰って来た。音だけが寂しく響く中、夜道を歩く私は、これで本格的に秋が来るんだなと妙にしんみりした気持ちになった。
 家に帰って、ソファーに座ったまでは覚えているが、はっと目覚めたときには、子供達は帰った後だった。酔っ払って、所構わず寝ちゃうのだけは何とかして直さなけりゃいけない。おかげで子供達にバイバイできなかったじゃないか。まったく残念なことをしてしまった、反省!
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