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えっ、恋愛論?

 先週の日曜日、酔いに任せて、『星の王子さま』を仏語の原書、日本語訳(岩波版)、英訳、独訳、さらにはスペイン語訳までネットで注文した。日本語訳は勿論のこと、仏語、英語では読んだことがあるが、独語・スペイン語では読んだことがない(どころか、独語・スペイン語は読めない)私が何故そんな気になったかと言えば、倉橋由美子訳の『星の王子さま』を書店で見つけて、岩波版の訳と比べてみたいと思うようになったからである。たしか、内藤濯訳の本は持っていたはずなのに探しても見つからないため、買うしかないなとネットで検索するうちに、この際、買える物はみんな買っちゃえという気になって、一気に5冊注文した。これが巷でウワサの大人買いかな、と思わず自分を笑ったが、本に糸目はつけたくない習性がまた出た結果だと自分では納得している。が、一週間たっても、配達されてこない。1週間もすれば、いろんな言葉で『星の王子さま』が楽しめると思っていた目論見が外れて、今日の日曜は退屈をした。
 サンテグジュベリと言えば、大学の卒論のテーマにしようかと思ったぐらいで、かなりの作品を読んでいるが、戦地へ赴く前に書き留めていたと言われる次の言葉がどうしても真っ先に頭に浮かぶ。
  
  『愛する、それは向き合うことではなく同じ方向を見つめることである』

 男女が知り合い、お互いを好ましいと感じた瞬間から、見つめ合い、互いを知ろうとするのは当然のことである。互いを認め合い、この人なら自分を任せられるかもと恋に落ちて行く。そこまでのプロセスは、甘美な、何度味わっても味わいつくせない甘く切ない恋の期間であろう。多くの場合、その段階で終わり、愛にまで発展しないのだが、それを愛と誤認することで様々なトラブルが生じる。「彼は私のこと分かってくれない」だとか、「彼女は自分のことしか考えない」とか言って、別れる男女のなんと多いことか。そんなのは愛でもなんでもない、ただの錯覚だから、早く別れたほうがいい。互いに見詰め合っているだけなら、どうしたって、相手の欠点が見えてくる。その意味で、SMAPのこの曲はなかなか示唆に富む。
   
 ♪育ってきた環境が違うから、すれ違いはしょうがない♪
                      山崎まさよし「セロリ」
 
 当たり前のことなのに、これが分からずに恋のまま終わるカップルが実に多い。まあ、下手に結婚してすぐに別れるバカップルよりもまだましかもしれないが。
 お互いの、自分とは違う点を認め合い、その違う点も含めた一個の存在として相手を尊重し合うことができれば、その瞬間に恋は愛へと昇華する。さらに、サンテグジュベリの言葉のように、二人で同じ方向を見つめ合うことができたとき、愛はたとえ一瞬であったとしても、成就されるのではないだろうか。それが、家を建てるとか、子供をどこそこの学校に入れるとか、どんなに日常的なものであったとしても、男女2人が力を合わせて1つの目標に向かって生きるとき、愛が達成されていると感じるのは、まだまだ私が青いからだろうか。
 愛を信じて生きなきゃ、この先、生きていけないや、私は。

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