ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

40数年ぶりの対面

2015年08月22日 | その他
             
  
昨夜のTVニュースでNHK放送90年の歴史を紹介する「放送90年特別巡回展」が福島放送局で23日まで開催されていると放映され、その1カットに自分の中年以後の人生にも深く関わってしまった因縁のTVカメラがあったので、今日40数年ぶりに対面して来た。
このカラーカメラは東京オリンピック用に従来のR・G・Bの3管撮像管から高画質化を図り、NHK技術研究所で2管式で開発、東芝で8台製作2台の中継車に4台ずつ搭載して開会式から閉会式まで国立競技場で使用された物で、当時は東京中継勤務でボート・馬術・マラソン(バレーボールSB要員)のモノクロ中継放送に従事、このカメラと接したのはオリンピック終了後と秋田へ転勤して再び古巣に戻った1971年から2年数ヶ月程だった。
このカメラ本体は60Kg程あって、三脚へ乗せる時は最低3人繋りで通常は専属の設営業者補助員との協同作業だが、ある日野外中継が終了した途端にわか雨になり、急ぐあまりに補助員と2人で撤収を開始、三脚から下ろした瞬間に腰を痛めてしまった。
以後整形外科へ通院しながらの業務は自分自身以上に仲間に負担をかける始末で、一年後の定期異動で入局当時のスタジオへ戻るか福島局との交換要員の選択を提示され、二度目の東京では真のプロを目指していたが「幸い君の故郷だしこんなチャンスは滅多に無いぞ、先は長いしそこでゆっくり治せ」の上司の言葉に素直に従ってしまった。
診断は脊椎分離症。鈍痛も5年も経過した頃には感じられなくなりレントゲン写真にも現れなくなってしまったが、その時関わったカメラA・B・C・Dのどれだったか記憶にないが、8台しか生産されなかったこのCカメラも何度か使っていた筈だ。
何れにしても自分の人生に深く関わってしまった因縁のカメラとほぼ40数年ぶりの対面は何とも感慨深いものだった。