ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

終焉

2006年11月28日 | その他
近所に住む我が娘「子供が大好き、誰にも迷惑は掛けない」と反対を押し切り国策に協力して新年早々年子で四人目が誕生する。
間もなく前例からして三ヶ月は一緒に生活、そして孫専従。止む無く46年間“ラジオ少年の夢”を実現させてくれた三文字から今日最後のお礼奉公を終えた。
何とも淋しい限りだ。思い返せば今ならパソコン少年だろうか、ラジオ製作の延長線上からアマチュア無線を始めて何時しか放送技術者になりたいと夢を追い、幸運にもチャンスが到来して蒸気機関車の鈍行で上京受験した。ライバルは全国各地から集結、高校生なのに長髪に革靴履き、そんな中でイガクリ頭にズック履きはごく少数、しかも面接では福島弁丸出しで自信喪失。翌日の発表を待たず夜行で帰ると云ったが「折角来た東京、秋葉原を見て帰れ」と義兄の引き止めで更に一泊した。
発表は午後1時、義兄の下駄を借りて10時頃秋葉原に向った。夢中で店内を見て歩き、気がつくと午後3時(時計など持てる訳も無く他人に聞いた)さすがに発表が気になり地下鉄神田駅へ走った。
合格番号が書れた大きな紙を二人の係員が脚立に乗って今壁面から剥がそうとしていた。番号を追った。夢が実現した瞬間だった。合格者への指示がその下に書かれてあり、三階の人事部まで合格手続書を取りに来るようにとの指示。丸で雲の上を歩いているような感じでエレベーターへ向う、扉が閉まる寸前だった。守衛が慌てて飛び込んで来た。
「君は受験生かい?」
「ハイ」
「その下駄抜いてこれに履き替えなさい」
とスリッパを渡され下駄は守衛室預かりとなった。
「受付は16時で終わりだったんだよ。君が一番最後だ、入局しないのかと思っていたヨ」
前代未聞、田舎ッぺ丸出しの大失態だった。
それから田舎者の40年間TV番組制作一筋、昇進と引き換えに希望通り最後まで現場の第一線で芸能から報道まで技術屋として勤めたがアナログの終焉と共に世紀末に定年退職。その後も“昔取った杵柄”の快感が忘れられず、関連会社から電話一本で東北管内や関東まで、偶には地元本体からの要請にも応じていたが“迷惑をかけない間に”と昨年12月末日で自ら幕を引いた。
そして今日終えた文化センターも開講と同時にお世話になり、二年三ヶ月の短い期間ではあったが、全く未知の分野で時には受講生から授業料も直接頂戴したり、素晴らしい貴重な体験をした。退職後のこの6年間は自分の我がままを許してくれた三文字への代償、罪滅ぼしの“お礼奉公”でもあった様な気がする。