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代表的日本人「柴五郎」 第6回

2023年10月16日 | ブログ
曙光(しょこう)

 『長く辛い冬を生き抜いた三人は、このままでは次の冬を越すことはできないと、食料を得るため開墾を決意した。明治四年春、雪が溶けるのを待って、三人は藩から与えられた鋤や鍬を手に生まれて初めての荒地の開墾に精を出した。三人の苦境を知った三兄が東京から助けに来た。出来上がった畑に何種類かの種を蒔いた。やせ大根と小ぶりのジャガイモだけが少量だが収穫できた。野菜作りはうまく行かなかったが付近にはセリ、ワラビ、フキ、アサツキなどの山菜がいくらでもあった。主食は相変わらずオシメ粥だった。

 五郎は兄嫁を気の毒に思った。世が世なら深窓の令嬢として華道、茶道、琴、和歌などに勤しんでいるはずなのに、今はボロを着て、髪を整える油もなく、やつれた顔でオシメ粥をすすっている。冬は毎日、むしろのすき間から吹き入る寒風に震えながら、父、兄、兄嫁が無言のまま部屋の中で縄をなっている。斗南に来た人々にとっては過去も未来もなく、ただ寒さと飢えにじっと耐えるだけで、話すことなど何もなかった。

 この年(明治四年)、廃藩置県が実施され斗南藩は消滅し弘前県に併合され、次いですぐに青森県となった。斗南藩の消滅に伴い、容保の嫡子、容大公も去ったこの地に多くの藩士たちが見切りをつけ、会津、東京、北海道など各地に散って行った。

 この年の寒風吹きすさぶ師走、雪に埋もれた最果ての荒野で夢も希望もなくしていた五郎に、ついに曙光が見えた。旧斗南藩から選抜され、青森県庁の給仕として働くことになったのである。青森県のトップは二十五歳の大参事、野田裕通(ひろみち)だった。薩長軍についた熊本藩士だが、横井小楠門下として学識がり、義侠心が強く、惻隠の情に溢れた人物だった。戊辰戦争で荒廃した東北から有望な若者を書生として取り立て、有為な人材を養成しようとしていた。会津の柴五郎の他にも、水沢藩の後藤新平(満鉄初代総裁)、同じく水沢藩の斎藤実(首相)などを育てた。自らの娘を会津藩士の家に嫁がせたりもした。五郎の仕事は職員の出勤前に役所へ行き、火を用意し鉄びんや茶釜を配るといった仕事だった。斗南での仕事に比べれば何のことはなかった。飢餓と厳寒に生命を脅かされていた五郎にとって、米を食べ布団に寝る生活は夢に見たものだった。誠実さや仕事ぶりを見込まれた五郎は給仕の身分そのままで野田大参事の邸に住みこむことになった。野田は五郎を可愛がり、五郎の将来のため夜間には読書や習字の先生をつけてくれた。五郎も、討幕派、佐幕派などを一切気にせず人物本位で人を見る野田に、自らの心の底にあったこだわりが次第に融けていくのを感じていた。

 半年ほど県庁で働いた五郎は、この地に給仕として安穏に暮らしていても将来がない、兄たちのいる東京に行き、戦乱でままならなかった勉学に励みたいと思うようになった。野田大参事もすぐに賛同し励ましてくれた。』

 五郎を可愛がってくれた野田大参事の話に、自分の工場勤務に始まる高卒のサラリーマン人生で出会った、上司や歴代工場人事課長さんたちの姿を思い出していた。

  本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの引用し、一部については編集しています。








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