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歴史に学ぶ 第2回

2018年06月04日 | ブログ
イフ

 歴史や人生、勝負事にイフ(if)は憑き物である。あの時、ああしていたら、ああなっていたら歴史は、自分の人生はどう変わっただろうかと、想像することは勝手で楽しくもある。未来は誰にも分からないし、現在の生き方で変えようもあろうが、過去の結果は変わらない。もっとも考古学の進歩で、例えば古代人の生き様の推測は変化している。戦国時代の話でも結果に至る経緯に修正が入る。

 『武田信玄入道晴信、52歳。所領120万石余から選りすぐった兵力2万2千(北条氏政よりの寄騎2千を含む)。徳川三河守家康31歳。所領50余万石から抽出した決戦兵力9千(織田信長よりの寄騎3千を含む)。時は元亀3年(1572)12月22日。上洛の障害を排除しようとする武田軍と、領国を蹂躙されまいと阻む徳川勢は、遠州浜松の北方1里余(約5キロ)の荒蕪地、三方ケ原において激突しようとしていた。・・・

 家康にとって、大惨敗は人生最大級の危機であった。歴史に<もしも・・・・>という仮説は無益でしかないが、信玄が従来通りの戦法をもってすれば、暦年敵対し続けた徳川勢を見過ごす筈がなかった。余勢を駆って浜松城に攻めかかれば、旬日を経ぬ間に城は木っ端微塵に打ち砕かれ、家康は確実に首を獲られていたであろう。だが、信玄はいつになく急いでいた。4カ月後に迫る生命の終わりに、予感があったかも知れない。・・・』(池宮彰一郎著「遁げろ家康」上、朝日新聞社刊1999年より)

 歴史学者磯田道史氏の最近の発見によれば、信玄が浜松城を攻めなかったのは、上洛を急いだためではなく、周辺に徳川の同盟軍信長の兵2万が要所に配備されていたことによるものだという。信長は徳川をさんざん利用しながら三方ケ原にも3千の兵しか派遣せず、冷たい素振りを見せていた。しかし、実は陰で強力に家康を援護していたのだ。ここにも織徳同盟が途切れなく続いた理由が見える。

 その信長の本能寺の変(1582年6月)での横死はまさに歴史を変えた大事件で、もし光秀の謀反がなければ、その後の日本の歴史はどのように変わったであろうか。義経以来の戦争の巧みさに加え、新しい時代を読む慧眼、さらに楽市楽座など経済政策にも長けた天才武人であった信長が後20年ほどでも生きていたら。

 信長はこの国の神になろうとしていたのか。信長天下の間に武家と朝廷との関係がどうなるか。秀吉のように海外にまで覇権を求めたかどうかなど興味は尽きない。ただ確実に外国との交易は進めたであろう。

 信長の子供にそれほどの逸材はいなかったようだから、秀吉と同様一代の天下で終わったかも知れない。しかし、61歳で逝った秀吉(1537-1598)の天下は可能性が少ない。そして結果はやはり、飽くなき健康志向で当時の医師より薬草等に詳しかったという「鳴くまで待とう」の長寿家康(1543-1616)の手に天下は落ちたのではなかろうか。

 加藤廣氏の「信長の棺」(日本経済新聞社出版部2005年刊)ではないが、信長を葬ることで秀吉の天下取りは成った。




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