日本のフィロソファー
歴史と聞くとどうしても昔々のお話となるが、現代にあっても歴史は刻々と積み上がっているわけで、特にすでに鬼籍に入られた方々は歴史上の人物となる。
西暦2000年というと、すでに18年も前のことになったが、私にとってはコンピュータの2000年問題ということで、職場で大晦日を迎えたことを思い出す程度だが、世間では千年紀ということで、この機会にと経済的繁栄で取り残された「日本のこころ」を持った歴史上の偉人たちを振り返ってみたいと本を出された人が居る。
「日本のこころ」(私の好きな人)地の巻、天の巻、講談社2000年7月刊。
挙げられた歴史上の人物は聖徳太子に始まり、田中角栄(1993年没)、司馬遼太郎(1996年没)まで30名。執筆者も各界の著名人の論客30名。2000年には確かに健在であられたが、その後亡くなられた方も多い。
「日本のフィロソファー」とは昨年亡くなられた渡部昇一先生(1930年生)が好きな人に挙げられた松下幸之助((1894-1989)氏のことである。
松下幸之助氏のことはあまりに有名なので、紹介は要らないと思うけれど、すなわち「経営の神様」である。東京浅草寺のシンボルである入口の巨大提灯は、日本がまだ貧しかった頃、松下電器(現、パナソニニック)の寄贈によるものとは、私は最近になって知った。
小学校4年生(満年齢9歳)で和歌山から大阪に丁稚奉公に出た。別に学校が嫌いだったわけではない。『奉公先のお向かいに、同じ年の男の子がいました。寒い朝、こちらが真っ赤になった手をフウフウと息であたためながら、ほうきを使い、冷たい水で表のふき掃除をしているとき、「行ってまいります」と、その坊ちゃんが元気に中学へ出かけて行く。僕は、その都度手をとめ、後ろ姿を見送りながら、人知れずため息をついたものでした。「ああ、僕も学校へ行きたいな」そのうらやましさを、いまご説明しても、みなさんにどこまでおわかりになっていただけるか・・・』昭和49年に毎日新聞社から出された松下幸之助「道は明日に」にある。
フィロソフィーとは、哲学者または哲人を言う。ある時、米国の雑誌記者が松下幸之助氏を実業家で出版者であり著述家であると紹介しながら、彼をフィロソフィーとも呼んでいたという。それを見つけた渡部先生が、これは鋭いと感じた。松下幸之助氏は日本人で世界に対してフィロソフィーと呼べるごくごく少ない人間の一人だと思った。その根拠は、彼はPHP(ピース&ハピネス・スルー・プロスペリティー)「繁栄による平和と幸福」という運動を行い、それに関して出版社も始めた。出版事業も成功させている。
氏は取引先の方から勧められた宗教の寄合に参加して考えた。金儲けを本業とする企業経営は、信仰とは真逆の行為のように思えたのである。しかし、信仰による平和と幸福の途もあるかも知れないが、会社を儲けさせて、ちゃんと給料を貰って結婚して子供を養い、教育をする、そうして死ぬ前にも平和と幸福に至る道があるのではないかとの考えに行き着いたのである。漠然とではなく、そのことをPHP運動を通じて一つの思想として打ち出したのである。
歴史と聞くとどうしても昔々のお話となるが、現代にあっても歴史は刻々と積み上がっているわけで、特にすでに鬼籍に入られた方々は歴史上の人物となる。
西暦2000年というと、すでに18年も前のことになったが、私にとってはコンピュータの2000年問題ということで、職場で大晦日を迎えたことを思い出す程度だが、世間では千年紀ということで、この機会にと経済的繁栄で取り残された「日本のこころ」を持った歴史上の偉人たちを振り返ってみたいと本を出された人が居る。
「日本のこころ」(私の好きな人)地の巻、天の巻、講談社2000年7月刊。
挙げられた歴史上の人物は聖徳太子に始まり、田中角栄(1993年没)、司馬遼太郎(1996年没)まで30名。執筆者も各界の著名人の論客30名。2000年には確かに健在であられたが、その後亡くなられた方も多い。
「日本のフィロソファー」とは昨年亡くなられた渡部昇一先生(1930年生)が好きな人に挙げられた松下幸之助((1894-1989)氏のことである。
松下幸之助氏のことはあまりに有名なので、紹介は要らないと思うけれど、すなわち「経営の神様」である。東京浅草寺のシンボルである入口の巨大提灯は、日本がまだ貧しかった頃、松下電器(現、パナソニニック)の寄贈によるものとは、私は最近になって知った。
小学校4年生(満年齢9歳)で和歌山から大阪に丁稚奉公に出た。別に学校が嫌いだったわけではない。『奉公先のお向かいに、同じ年の男の子がいました。寒い朝、こちらが真っ赤になった手をフウフウと息であたためながら、ほうきを使い、冷たい水で表のふき掃除をしているとき、「行ってまいります」と、その坊ちゃんが元気に中学へ出かけて行く。僕は、その都度手をとめ、後ろ姿を見送りながら、人知れずため息をついたものでした。「ああ、僕も学校へ行きたいな」そのうらやましさを、いまご説明しても、みなさんにどこまでおわかりになっていただけるか・・・』昭和49年に毎日新聞社から出された松下幸之助「道は明日に」にある。
フィロソフィーとは、哲学者または哲人を言う。ある時、米国の雑誌記者が松下幸之助氏を実業家で出版者であり著述家であると紹介しながら、彼をフィロソフィーとも呼んでいたという。それを見つけた渡部先生が、これは鋭いと感じた。松下幸之助氏は日本人で世界に対してフィロソフィーと呼べるごくごく少ない人間の一人だと思った。その根拠は、彼はPHP(ピース&ハピネス・スルー・プロスペリティー)「繁栄による平和と幸福」という運動を行い、それに関して出版社も始めた。出版事業も成功させている。
氏は取引先の方から勧められた宗教の寄合に参加して考えた。金儲けを本業とする企業経営は、信仰とは真逆の行為のように思えたのである。しかし、信仰による平和と幸福の途もあるかも知れないが、会社を儲けさせて、ちゃんと給料を貰って結婚して子供を養い、教育をする、そうして死ぬ前にも平和と幸福に至る道があるのではないかとの考えに行き着いたのである。漠然とではなく、そのことをPHP運動を通じて一つの思想として打ち出したのである。