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代表的日本人「柴五郎」 第7回

2023年10月19日 | ブログ
陸軍士官へ

 『明治五年八月、十二歳となった五郎は二年ぶりに東京に戻った。・・・東京は二年前と大きく変わっていた。とりわけ仏閣が壊されているのには驚いた。日本は奈良時代の頃から神仏習合と言われ、寺の境内に神社があったり、神社に仏像が置かれたりしていた。「神と仏は一つ」と教えられてきた五郎にとって増上寺などいくつもの寺が壊されたりひどく縮小されていたのは衝撃だった。慶応四年に神仏分離令が発布され、廃仏毀釈(仏教弾圧の一環として仏像や寺院を次々と破壊すること)が盛んになったのである。戊辰戦争で天皇利用に味をしめた薩長が、日本を国家神道一本とし、これまでのように天皇の威を借ることで権力を掌握し続けようと企んだのである。

 廃仏毀釈は千年余りにわたる伝統文化を破壊した恐るべき犯罪であった。薩長の無知無教養な若輩たちによる歴史上類のない蛮行であった。実際大政奉還のあった1867年、四十九歳の西郷隆盛を除き、坂本竜馬三十一、伊藤博文二十六歳、山県有朋二十九歳、大隈重信二十五歳、板垣退助三十歳、木戸孝允三十四歳、大久保利通三十七歳と若造ばかりだった。松下村塾出身者もいるが、吉田松陰の四天王と言われた久坂玄瑞や高杉晋作など秀才四人は、大政奉還前に死んで、残ったのは無教養の凡才ばかりだった。彼等の良識の欠如は維新の犠牲者を祭るため明治二年に建立された靖国神社に、会津など東北人犠牲者を祭ることを禁止したことにも表れている。維新時、すでに佐久間象山、橋本佐内、藤田東湖など維新をリードすべきだった高い知性の人々がいず、薩長の見識も良識もない若い武断派下級武士たちによるクーデターとなったため、法外の人的犠牲や文化的犠牲が発生したのだった。・・・

 知己を頼りに、下僕として働きながらあちこちを転々としていた五郎に、青森県大参事を解任され上京していた野口裕通より手紙が届いた。「近々陸軍幼年生徒隊にて生徒を募集する試験あり、受けてみよ。これに合格すれば陸軍士官になることを得、汝武士の子なれば不服あるまじ」というものだった。五郎は嬉しさで飛び上がり、さっそく野口裕通と斗南藩大参事だった会津藩家老の山川大蔵の両恩人に保証人となってもらい願書を提出した。同時に下宿先の書生に頼み読書や算術の猛勉強を始めた。

 十一月初旬に和田倉門外の兵学寮で受験した。翌明治六年三月に「入校を許可す」との報が届いた。起居していた山川邸では大蔵も夫人も涙を流さんばかりに喜んでくれた。・・・

 明治九年になって、斗南で頑張っていた父親と三兄と兄嫁が、ついに開墾を諦め会津に戻った。・・・

 翌明治十年には西郷率いる薩摩勢による西南の役が起こった。旧会津藩士たちはこれを千載一遇のチャンス、「汚名返上戦争」ととらえ、こぞって政府軍に参加した。学業中の五郎を除いた柴家の兄弟達も「今こそ芋侍たちを木っ端微塵に叩きのめさないと泉下の母親たちに申し訳がたたない」と勇んで参戦した。・・・半年後に政府軍の総帥大久保利通が東京の紀尾井坂で暗殺された。権力掌握のため、何の理由もなく会津に朝敵の汚名をかぶせた上、血祭りにあげた元凶二人が、非業の最期を遂げたのである。五郎は国を守る陸軍にいながら、国の柱石たる二人の死を「天罰」と密かに思い溜飲を下げた。』

本稿『 』は引き続き、文藝春秋10月号「私の代表的日本人」藤原正彦先生の著作からの引用です。



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