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日本仏教をゆく 第11回

2019年12月01日 | ブログ
一遍

 「踊り念仏」で知られ、浄土宗の一派である「時宗」の開祖としても知られる一遍は、1239年、伊予道後(愛媛県松山市)で生まれた。父は河野通広といい、源平の戦に勇名を馳せた河野一族である。しかし一族は1221年に起きた後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時に対して討伐の兵を挙げた承久の乱で、上皇の軍に加わったため、祖父の通信はじめ一族の多くも流罪となった。ただ、父通広は法然の弟子、証空の弟子となって出家していたため流罪を免れた。

 一遍は10歳のとき母を亡くし、父の命で隨縁(ずいえん)という僧になる。1251年、13歳で筑前の聖達(しょうたつ)の弟子となり、名も智真(ちしん)と改め、聖達と彼の推薦による華台(けだい)のもとで学んだ。

 しかし、25歳にして父、如仏(にょぶつ)の死によって伊予に帰国し、還俗(けんぞく)する。しかるに4年後、1267年彼は無常を感じて再び出家し修行を重ねるのである。さらに7年後、彼は妻子を伴って、四天王寺、高野山を経て熊野に向かう遊行の旅に出る。

 すでに念仏の行者であった一遍は熊野でも布教のため「南無阿弥陀仏」の極楽往生のためのお札を配る。その時一人の僧からお札の受け取りを拒否されたことから、その夜夢に、山伏姿の熊野の神が現れ、「あなたの勧めで衆生(しゅうじょう)の往生が可能になるわけではない。それはすでに阿弥陀仏によって決定(けつじょう)しているのだから、信、不信を問わずその札を賦(ふ)り(くばる)なさい」とのお告げを受ける。

 衆生の極楽往生はすでに阿弥陀仏によって決定しているので、心などというものを問題にする必要はない。法然は念仏の信者がもつべき至誠心、廻向発願心について論じているが、一遍は、心を問題にすればいよいよ迷いを生じるもので、心にこだわることを一切やめ、念仏して南無阿弥陀仏と一体になれという。しかしそのためには地位や財産はもちろん、妻や子も捨て、遊行すなわち乞食の行をしなければならないという。

 この熊野での神のお告げによって一遍は妻子を捨て、一人になり遊行の旅に上る。このとき、一遍が法然や父の師証空を超えて、一遍独自の浄土教を確立したのではないか。このときから智真は一遍と名乗る。

 こうして一遍はあちこち一人旅を続けるが、やがて一遍と一緒に旅する弟子が増える。その中にはどこにも行き場のない、生活の手段を持たない僧や尼も加わる。やがてその旅は信濃の佐久において大きな変化を遂げる。念仏を称えていた弟子の僧たちが、踊り出したのである。阿弥陀仏に救われて極楽往生できるという喜びが歓喜となり自然と踊りの輪になったのである。

 踊り念仏は一遍が深く尊敬する空也(本稿第8回参照)によって始められたものであるが、この佐久において、図らずも空也の踊りが一遍の踊りになった。

 こうして踊りは、生きるすべのない多数の僧尼を抱える一遍にとって食にありつく興業ともなり各地で盛大に催されるようになる。一遍という捨聖の噂は広まり、東国から都に帰って興業したときは上下の人がそれを見に来て混乱したほどであった。喜々として踊り狂う人々の中にあって、一遍一人深い孤独を秘めて遠くを見つめている姿が「一遍聖絵」に残されている。

 1288年、彼の祖先祀られている伊予の大三島に詣で、さらに翌年讃岐の善通寺から阿波、淡路から兵庫の観音堂に移り、そこで病が重くなり、51歳の生涯を終えた。



本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。
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