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新渡戸稲造「武士道」を読む 第8回

2021年04月22日 | ブログ
「切腹」そして「刀」

 『・・・日本人の切腹に対する考えが、嫌悪や、まして嘲笑によってそこなわれることはないと信じる。

 徳、偉大、優しさなどという考えは驚くほど多様に変化する。したがって死のもっとも醜い形式にも崇高さを帯びさせ、そして新しい生命の象徴にさえなるのである。・・・

 日本人の心の中で切腹がいささかも不合理でないとするのは、・・・身体の中で特にこの部分を選んで切るのは、その部分が霊魂と愛情の宿るところであるという古い解剖学の信念にもとづいていたのである。・・・

 ・・・切腹は一つの法制度であり、同時に儀式典礼であった。中世に発明された切腹とは、武士がみずからの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、みずからの誠実さを証明する方法であった。

 法律上の処罰として切腹が行われるときには、それ相応の儀式が実行された。それは純化された自己破壊であった。きわめて冷静な感情と落ち着いた態度がなければ、誰も切腹などを行いうるはずはなかった。・・・切腹はいかにも武士階級にふさわしいものであった。
 ・・・
 武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。・・・

 サムライの子弟はごく幼いころから刀を振りまわすことを学んだ。彼らは五歳になると、サムライの正装に身をつつみ、碁盤の上に立たされた。そして、それまでもてあそんでいた玩具の短刀のかわりに本物の刀を腰にさすことで、武士の仲間入りを許された。・・・ 

 ・・・十五歳で元服し、独り立ちの行動を許されると、彼はいまやどんな時にも役に立ち得る鋭利な武器を所持することに誇りを感じる。危険な武器を持つことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる。

「伊達(だて)に刀はささぬ」

その腰に差しているものは、彼がその心中にいだいている忠誠と名誉の象徴である。・・・

 刀匠は単なる鍛冶屋ではなく、神の思し召し受ける工芸家であった。その仕事場は聖なる場所ですらあった。彼は毎日、神仏に祈りを捧げ、みそぎをしてから仕事を始める・・・・

 ・・・鞘から引き抜かれた瞬間、表面に大気中の水蒸気を集める氷のごとき刀身、その清冽な肌合い。青白く輝く閃光。比類なき焼刃。それらは歴史と未来が秘められている。それに絶妙な美しさと、最大限の強度を結びつけている“そり”のある背----これらのすべてが力と美、畏敬と恐怖の混在した感情を私たちに抱かせる。・・・

 武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。やたらと刀を振り回す者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはるものとされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべきときはどのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会はじつのところ、ごく稀にしかやってこないのである。・・・』


 本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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