11月25日
三島由紀夫の命日である。昭和45年のこの日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自殺して果てたことはあまりにも有名である。三島由紀夫が亡くなって丁度半世紀、50年となる。
私、個人にとってもこの日は忘れられない日である。広島大学病院眼科外来で、当時「網膜剥離の世界的権威」と聞いた百々教授の診察を受け、左眼網膜剥離で入院手術の宣告を受けた日であった。丁度教授からの受診中に、若い医師が「三島が腹を切った」と診察室に飛び込んできた。大学病院の外来診察室に、医師が声を荒げて飛び込んでくる異常さが、世の中の衝撃の強さを物語っていた。
死後50年にして一部の三島本が書店で売れている(11月21日NHKスペシャル「三島由紀夫50年目の”青年論”」)そうだが、1970年代の日本の歌謡曲なども若者や一部海外にもファンが居るような話が紹介されたりする。良いものは時を超えて評価される。
『三島由紀夫は大正14年1月14日、当時の東京市四谷区永住町二番地に生まれた。本名は平岡公威(きみたけ)、父は平岡梓(あずさ)、母は倭文重(しずえ)、その長男である。・・・
平岡家は・・・もと兵庫県印南郡志方村の農家である。以前のことはともかく、三島の祖父平岡定太郎の時から世に知られている。』と「現代日本文学館」全43巻-文藝春秋-の第42巻三島由紀夫の刊、「三島由紀夫伝」に橋川文三が書いている。
祖父の定太郎は現在の東大法学部を卒業後、内務省に入り明治41年には樺太庁長官に抜擢されている。定太郎の妻すなわち三島の祖母は大審院判事永井岩之丞の長女で、やはり名士一族である。
父の梓氏は明治27年の生まれ、開成中学、第一高等学校をへて大正九年、のちの首相岸信介と同年に東京帝国大学法学部を卒業し農林省に入り、水産局長で退官。母倭文重さんは金沢前田家の儒者橋家の出身で、その父(三島の母方の祖父)橋健三は、明治から大正にかけて開成中学校の校長をつとめた人であった。(「三島由紀夫伝」橋川文三による)
文学者には旧家の出で、その旧家が没落する際の閃光のような存在であることが多いような話があるが、藤村しかり、太宰しかり。三島も言ってみれば、日本の高級官僚を生んだ優秀な一族の末裔であったと言えなくもない。
死の1年前三島は、思想的に対極にある東大全共闘の学生との対話に臨む。三島はその折、死さえ覚悟で出かけたようだったという。三島の話を聞こうと会場は1000人以上の聴衆で埋まり、2階席は崩れるのではと心配されるほどだったという。学生たちは、対話の最後に三島の発した言葉「諸君たちの熱情は信じる」を糧にその後の人生で大きくなっていったと、全共闘メンバーの一人は述懐している。(NHKスペシャル「三島由紀夫50年目の”青年論”」)
現代の日本では、若者が体制批判する活動はすっかり見られない。政治に関心さえ少ないように見える。ゆえに政治家に緊張感が薄い。ゆでガエル状態が続けば、いずれ世界の中でこの国は埋没してゆく。