NEWSポストセブン1/2(火) 16:15
2023年は全国各地でクマによる被害が相次いだ。人間の生活圏に出没する「アーバンベア」も問題となり、捕獲・駆除の強化が叫ばれている。その一方で、駆除を担う自治体への抗議電話が殺到しているという。果たして、クマと人間はどう共存していくべきなのか──。NHK自然番組ディレクターから「猟師」に転身し、著書『獲る 食べる 生きる 狩猟と先住民から学ぶ“いのち”の巡り』が話題の黒田未来雄氏が、実際にヒグマと対峙した体験をもとにレポートする。【全3回の第1回】
【写真】一人で山に分け入って猟をしている黒田氏
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ここ数年、ひたむきにヒグマを追いかけてきた。研究の対象ではなく、観光でもない。狩猟者の私にとって、ヒグマは獲物。その肉はとてつもなく旨い。
熊撃ちの常とも言えようか、私は四六時中、ヒグマのことを考えている。
今頃、どこにいるのか。何を食べているのか。どうやったら獲れるのだろうか。猟期以外であっても、山を歩けば心は無意識にクマに向き、両の目は常にあの毛むくじゃらで真っ黒な姿を探し求めてしまう。もはやヒグマに取り憑かれていると言っても過言ではない。
ヒグマは用心深く、とても臆病な生きものだと思ってきた。
実は、銃を持って山を歩くと、彼らの痕跡を至る所に見かける。彼らは人間が思っている以上に、我々のそばにいる。点々と続く足跡。一目でヒグマのものと分かる太いフン。中には湯気が出ていそうなものに出くわすこともある。
しかし狩猟を始めて5年目まで、いくら山を歩いても、猟場でヒグマそのものに出会ったことはなかった。
畏るべき賢者「キムンカムイ(山の神)」
北海道のヒグマの推定生息数は1万頭ほど。対してエゾシカは70万頭と言われる。エゾシカは毎日のように、時に1日100頭以上を目撃することもある。生息数の比率だけを見れば、エゾシカを100頭見れば、ヒグマを1頭くらい見てもいいはずだ。しかしそうした数字だけの計算と、現実の遭遇率は全く異なる。それだけヒグマは人目を避ける生きものということだ。
人間の存在を察知する鋭敏な嗅覚。藪に身を潜めて何時間でも動かない忍耐力。ガサガサと大きな音を立てながら落ち葉を踏む二足歩行の不器用な私たちを、すぐ近くに隠れてじっと観察し、足音を立てずに消えてゆく。
不気味な獣という見方もあろうが、私にとっては、人間を簡単に殺傷する能力を持ちながら、無益な戦いは絶対にしないという賢者。アイヌの人々が「キムンカムイ」(山の神)と呼び、畏れ敬ってきた存在そのものだ。
かと言って、ヒグマが全く人間を襲わないわけではない。身を守るためには、彼らは敵を排除する。
例えば山菜採りなどで山に入った人間と、あまりに近くで鉢合わせした時など、驚いてパニックになったヒグマが、人間を強大な前脚ではたいても不思議ではない。特に子供を守ろうとする母グマは危険だ。
「コディアック・ベア」との遭遇
かく言う私も、生命の危機に晒されたことがある。およそ20年前、場所はアラスカのコディアック島。そこに生息するヒグマは「コディアック・ベア」と呼ばれ、体のサイズが世界最大級になることで知られている。
当時私は、ディレクターとしてNHKに入局して6年目で、自然番組を制作する部署への配属を希望しながら、「ためしてガッテン」などのサイエンス番組を制作していた。その一方で、アラスカを中心に活躍していた写真家の星野道夫氏に憧れ、プライベートでアラスカを旅することもあった。そんな私が最も関心を寄せていたのが、コディアック・ベアだった。
その伝説的なクマが見たくてコディアック島に入った私は、ベニザケがたくさん遡上する水系を一人で辿った。
藪の中を進むのがあまりに怖かったため、見晴らしの良い湖水の中を膝まで水に浸かって歩きながら、ヒグマを観察していた。
不意に、そばの土手から小さなクマが顔を出した。興味深そうに私を見ている。カメラを構えて写真を撮っていると、後ろから大きなクマが立ち上がった。小さなクマの母親だ。
私を警戒しているのは明らかだった。
非常に危険な状況だが、必死に自分を落ち着かせる。こうした時、一目散に逃げるのが最もやってはならないことだ。逃げる者を追いかけ、とどめを刺そうとする彼らの本能にスイッチを入れてしまうことになる。
入山届を出しに行った国立公園のレンジャーからは、こんな指示を受けていた。
「クマに至近距離で遭遇した場合、まずは目を見て謝れ。落ち着いたトーンで、あなたに危害を加えるつもりはありません、ごめんなさい、と言いながら、背中を見せずに後退りしろ。十分に距離が離れたら、もう振り返っても大丈夫なので、ゆっくりとその場から立ち去れ」──。
体内の血液が全て凍りつくような恐怖に慄きながらも、私はその通りに行動した結果、事なきを得た。
大千軒岳ヒグマ襲撃事件の衝撃
このように、ヒグマが人間を殺傷するのは自分たちを守るためであり、積極的に襲うような生きものではない──というのが、クマの観察や熊猟を通じて私が培ってきた肌感覚だ。
ところが2023年、今まで私が培ってきたヒグマの概念からは、想像できない行動をとるものが出てきた。10月31日、北海道南部の大千軒岳(だいせんげんだけ)で3歳の雄グマが登山中の消防署員3名に襲いかかったのだ。
そのクマは、勇敢な署員が首に突き立てたナイフの傷が元で命を落としたが、胃の中からは10月29日に同山に登ったまま行方不明となっていた大学生のDNAが検出された。専門家による調査の結果、クマはまず大学生を襲って食べ、その後、消防署員を襲ったと考えられるという。つまりは、積極的に人間を襲うヒグマだった可能性が高い。
やむを得ない事態が発生しない限り、ヒグマが人間を襲うことはないと信じてきた私は大きな衝撃を受けた。一体ヒグマに何が起きているのか。ヒグマの性格が変わってしまったのか。或いは別の要因により、追い詰められているのだろうか。
(第2回に続く)
【プロフィール】
黒田未来雄(くろだ・みきお)/1972年、東京生まれ。東京外国語大学卒。1994年、三菱商事に入社。1999年、NHKに転職。ディレクターとして「ダーウィンが来た!」などの自然番組を制作。北米先住民の世界観に魅了され、現地に通う中で狩猟体験を重ねる。2016年、北海道への転勤をきっかけに自らも狩猟を始める。2023年に早期退職。狩猟体験、講演会や授業、執筆などを通じ、狩猟採集生活の魅力を伝えている。著書に、『獲る 食べる 生きる 狩猟と先住民から学ぶ“いのち”の巡り』(小学館)。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0766770957a61465e08ed3f9dd6d6d2e830beb95