先住民族関連ニュース

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<アイヌ新法の明日>下 尊重し合い、共に生きる

2019-06-05 | アイヌ民族関連
北海道新聞 06/04 09:57
 コンビニエンスストアで商品を並べる男性オーナー、スーツ姿の若いシステムエンジニア…。札幌市立東苗穂小4年の教室のスクリーンに、アイヌの人々の日常生活が次々と映し出された。そして画面が切り替わり、休日、民族衣装を着た人々が祈りの儀式「カムイノミ」に集まる場面。食い入るように見つめる子どもたちに、北大アイヌ・先住民研究センター准教授の北原モコットゥナシさん(43)は「どちらも同じおじさんだよ」と語りかけた。
■現代の暮らし
 「アイヌ民族について、こんなふうに伝える方法があるのか」。同小の社会科教諭伊藤拓真さん(39)は昨年8月、北原さんの授業を初めて見た時の驚きを、今も鮮明に覚えている。
 北原さんは2年前から年1回、同小の社会科授業で講師を務める。学校の教科書はアイヌ語由来の地名や歴史、文化の紹介が中心。だが北原さんはアイヌ民族の現代の暮らしも伝える。
 「山奥でかやぶきの家に住んでいる」「シカを捕って暮らしている」。アイヌ民族についてまだそんな誤解を持つ人も多い。「伝統的な生活をしていなくても自分の中の『アイヌ性』を大切にする、今のアイヌの姿を知ってほしい」と北原さんは願う。
 5月24日施行のアイヌ施策推進法は、アイヌ民族の誇りが尊重される社会を実現することが、「人格と個性を尊重し合える社会」につながるとうたった。法律を読み、伊藤さんははっとした。「まさに、自分が伝えたいことだ」。4月から、アイヌ文化に関する授業内容を考える担当になった。子どもたちと「いろんな人が共に生きる社会」について考えたいと改めて思う。
 「アイヌにお会いするのは初めて」「差別されたことはありますか?」。札幌アイヌ協会の光野智子さん(59)はイベントなどの来場者らから、そう言われることがある。「あからさまな差別や誤解も悲しいが、無意識の言葉もつらい」
 それでも「現状を知ってほしい」と丁寧に説明する。アイヌ民族の中には差別や偏見を恐れて名乗れない人がいて、もしかしたら身近にそんな人がいたかもしれないこと、悲しい体験を親しい人にも話せず胸にしまっている人がいること。
 推進法ができても社会はすぐ変わらないだろう。でも―。「学校にも職場にもアイヌを含め多様なバックグラウンドを持つ人がいる。そんな前提を自然に持てるようになれば」と思う。
■故郷に恩返し
 「ヤクン ホシキノ ヌカラ ヤン(まずは、ご覧ください)、どうぞ!」。日高管内平取町出身のアイヌ民族で慶応大2年の関根摩耶さん(19)と、「よーぴん」の愛称で登場する同級生の田原悠平さん(21)が、カメラに呼びかけた。
 関根さんたちは、もう1人の同級生と4月から、動画投稿サイト・ユーチューブでアイヌ語講座「しとちゃんねる」を始めた。休日の過ごし方など、友人との何げない会話をアイヌ語で話し、解説を約5分にまとめて毎週水、土曜に配信する。
 3人の出会いは中国語の授業。田原さんは、関根さんがアイヌ民族だと、いつどのように聞いたか、覚えていない。「クラスメートとして自然に仲良くなっていた」と田原さん。関根さんは「アイヌのことも含めて、2人は私を私として尊重してくれる」と話す。
 しとちゃんねるは「アイヌ語の復興とか大きな目的ではなく、大好きな故郷の家族や友人への恩返しのつもりで始めた」と関根さん。推進法を機に講演や取材の依頼も増えた。でも「『あるアイヌ民族』としてではなく、関根摩耶として、大切だと思うことを伝えていきたい」。よーぴんたちがいれば、きっとできる。

 第1条 (前略)アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする
 アイヌ民族はかつて北海道や千島列島、樺太(サハリン)、カムチャツカ半島などにすみ、現在は日本など各地で暮らしている。2017年度に道が行ったアイヌ民族の生活実態調査によると、道内のアイヌ民族の人数について把握できたのは約1万3千人。各地のアイヌ協会などが協力し調査しているが、今も根強く残る差別に出自を打ち明けることをためらう人も多く、専門家の間では「民族の血を受け継ぎながら、調査対象から漏れた人は数万人以上」との見方もある。
◆モコットゥナシさんとホシキノのシ、ヌカラのラは小さい文字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/311729

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[大弦小弦]境界は、超えられる

2019-06-05 | アイヌ民族関連
沖縄タイムス 6/3(月) 5:10配信
 見る側にいたはずが、いつの間にか作品の中に取り込まれている感覚。東京出張に合わせて、デジタルアート集団「チームラボ」の展示を訪ねた
▼阿波踊りの群舞が写る透明パネルの森に迷い込み、自分もその一員になったかのように鑑賞される。チョウの映像は隣の展示室に飛んでいってしまう
▼コンセプトは「ボーダーレス」。人間は自然界に存在しない境界を作り出して自ら縛られている、と代表の猪子寿之さんは語っている
▼「地球と宇宙というと、その間にはまるで境界があるように思いますが、実際には地球と宇宙は連続的な変移であり、そこに境界はない」「独立していることと境界があることは関係のない概念ですが、独立し続けるためには境界が必要な気がしてしまう」
▼「日本人」も言葉にすると明確な定義があるかのようだが、実はあいまいだ。政府がやっと先住民族だと認めたアイヌ民族がいて、しかも自己認識はそれぞれ違う。沖縄でも、過去の調査では「沖縄人」「沖縄人で日本人」「日本人」の回答が混在した
▼書店やネットには「ニッポンすごい」という自賛があふれる。なぜだか、「中国や韓国とは違って」がセットになる。無理に線を引き、ゆがんだ優越感で保つ自我は、ぶよぶよの水風船によどむ水のよう。境界は超えられる。人はもっと自由だ。(阿部岳)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190603-00427671-okinawat-oki

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聞けば腰を抜かす 当選果たした公認候補たちのヘイト発言

2019-06-05 | アイヌ民族関連
日刊ゲンダイ 公開日:2019/06/04 06:00 更新日:2019/06/04 06:00
 暖簾に腕押し、糠に釘――。NHKから国民を守る党(N国)を取材していると、常にそんな言葉が脳裏をよぎる。候補者の前科はもちろん、過去の問題発言についても、立花孝志代表(51=写真)らは「最終的には有権者の判断」という姿勢を取り続けているからだ。
 候補者の選定は「NHK問題をやってくれれば、保守も革新も関係ない」(立花代表)という。同党公認で選挙を勝ち抜いた候補者たちの過去の発言を知れば、腰を抜かす人もいるだろう。
 2018年10月の兵庫県川西市議選挙で当選した中曽ちづ子氏(57)は、過去に「辻元清美を射殺しろー!」などとヘイトスピーチを連発。
 今年4月21日の渋谷区議選で当選した金子やすゆき氏(48)は、元札幌市議から地盤を変えて立候補。金子氏は14年8月、ツイッター上に「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね」と書き込み(現在も削除せず)、当時所属していた自民党札幌市連を除名された過去がある。
 それでも選挙で勝てば議員になれる。これが今の民主主義の仕組みだ。どんな辛辣な批判も「有権者のお墨付き」の前では力を失う。よく考えて投じた1票も、そうでない1票も同じ1票。それほど有権者の権利である「1票」は重い。
■地方議員は「そりゃあもう、おいしい仕事」
「そりゃあもう、おいしい仕事ですよ! 逆に言うと、『おいしい』と言わない人に言いたい。なんで隠すの? 後ろめたいからじゃないの?」
 立花代表は17年11月の葛飾区議選当選直後、選挙区内で豪華なタワーマンションへと事務所を移した。そこで区議の報酬明細や銀行通帳を見せながら、こう解説した。
「議会の会期中も5日間しか出勤しない。定例会は年4回ですから、単純計算したら絶対に行かなきゃいけないのは年間20日。しかも、1回平均2時間程度。それでボーナスが年3回。年収は約1000万円です」
 もちろん、もっと忙しい地方議員も多くいる。
「書いても大丈夫か」と聞いても即答だった。
「公人ですから、どうぞ」
 石に灸――。 (つづく)
畠山理仁フリーランスライター
1973年、愛知県生まれ。早大一文在学中の93年から雑誌を中心に取材・執筆活動を開始。関心テーマは政治家と選挙。2017年に著書「黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い」(集英社)で第15回開高健ノンフィクション賞を受賞。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/255271

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日本初の「忍者部」を創設。知られざる津軽の忍びで観光開発にチャレンジ。【友清哲のローカル×クリエイティブ】

2019-06-05 | アイヌ民族関連
finders 6/4(火) 11:55配信
忍者といえば伊賀(三重県)や甲賀(滋賀県)のイメージが根強い。しかし今、忍者に関する随一のホットスポットは津軽であるといえば、皆さんは驚かれるだろうか。今回は、かつて弘前藩に仕えた忍者の痕跡を探究する、青森大学の清川繁人教授にご登場願った。忍者研究の最前線と、清川教授が創設した「忍者部」の活動について追っていこう。
津軽の忍者集団「早道之者」とは?
「弘前市内に所有している家が、かつて忍者屋敷だったと聞いている。ぜひ調べてほしい――」
青森大学薬学部・清川繁人教授の元にそんな依頼が寄せられたのは、2016年秋のことだった。場所は観光名所として賑わう弘前城から徒歩数分の市街地。長く使われずにいたその空き家は、一見しただけでは年季の入った普通の平屋にしか見えない。ところが、いざ室内を検めてみると、これが歴史的遺物であることが判明したのである。
「所有者の方から連絡をいただいて、すぐに実地調査に出向きました。すると、確かに客間や寝室の床の間などに隠し空間が認められるほか、鶯張りの床も確認できました。さらに、このエリアの古地図と照らし合わせてみたところ、明治時代の所有者の姓が、かつて弘前藩に仕えていた『早道之者(はやみちのもの)』と呼ばれる組織の忍者と同姓であることがわかったのです」
また、明治期にこの屋敷を所有していた人物からは、当時は室内に薬草の匂いが強く残っていたとの証言も得られた。甲賀忍者は薬学に長けていたことで知られており、諸々の材料から清川教授はこの家屋を、甲賀の流れを汲む「早道之者」ゆかりの屋敷であると断定したのだった。
忍者といえば伊賀(三重県)や甲賀(滋賀県)のイメージが強いだけに、青森県内での忍者屋敷発見の報は、驚きをもって広く一般に受け止められた。では、弘前藩に仕えたこの「早道之者」とは、一体何者なのか?
「『早道之者』は江戸中期から明治3年まで活動した忍者集団です。結成のきっかけは1669年、アイヌの首長が松前藩に対して蜂起した『シャクシャインの戦い』でした。この反乱以降、蝦夷地(現在の北海道)でアイヌと松前藩の動きを監視するために雇われた甲賀忍者が、後に『早道之者』の頭領になったのです。明治期まで活動した忍者は全国でも稀で、弘前藩が残した『分限元帳』には、約60名分の名簿も確認できます」
隠密行動を行う忍者なのに名簿があるというのは意外な気もするが、これは活動が近代にまで及んでいたことと、多くの忍者が他に本業を持つ“パートタイマー”であるのに対し、彼らは弘前藩に召し抱えられた“正規雇用”の身分であったことが大きいと清川教授は語る。
なお、「早道之者」という呼称には、北海道から津軽海峡を越えて弘前城へ、さらには江戸屋敷へと、迅速に情報を伝える者たちという意味が込められている。
イルカの生態研究から観光開発にアプローチ
ところで、清川教授の専門は本来、遺伝子工学である。それがなぜ、こうして忍者研究に手を染めることになったのか?
「私は筑波大学の出身で、卒業後はしばらく東京の製薬会社に勤務していました。ただ、一人っ子なのでいつか青森に戻ろうという思いがずっとあり、そのタイミングを探していたんです。34歳の時、たまたま青森大学が生物工学科を新設するにあたって人を募集しているのを知り、これが青森に戻るきっかけになりました」
青森にUターンしてからは主に、縄文人から現代人に受け継がれている遺伝子を調べ、青森県民のルーツを探る研究に邁進してきた清川教授。そんな中、忍者よりも先に新たな研究対象となったのは、イルカだった。
「青森県の陸奥湾には、毎年4月下旬から6月下旬にかけて、たくさんのイルカがやって来ます。九州の対馬沖からやって来たこのイルカたちは、一定期間を陸奥湾で過ごし、7月になると北海道へ向かうのですが、なぜそのような行動を取るのかという疑問が、学者としての最初の関心でした。そこでイルカの観察に励むうちに、これを観光資源として活用しない手はないと考えるようになったんです」
生態を解き明かしながらイルカを観光資源としてPRできれば、まさしく一石二鳥。うまく運べば、桜の時期とねぶた祭りの間のオフシーズンを、イルカで盛り上げることができるかもしれない。
そう考えた清川教授は、今も春から夏にかけては頻繁に陸奥湾沖へ出て、イルカの生態観察に明け暮れている。そして最近では、津軽半島と下北半島を結ぶ「むつ湾フェリー」や自治体などと連携しながら、イルカによる地域起こしも少しずつ形になってきた。すべては故郷青森をどうにか活性化させたいという一心からのことである。
東日本大震災を機に、本格的な忍者研究をスタート
そんな清川教授が忍者に注目することになったのは、2011年に発生した東日本大震災がきっかけだった。青森県は比較的被害が少なかったものの、風評被害で観光客は激減。とくに年間6万人ほど訪れていた県内の外国人観光客は、震災後は半分にまで減った。
どうすれば外国人観光客を呼び戻すことができるのか。そう考えた時にふと、かつて弘前藩に仕えていた「早道之者」の存在に思い至った。
「やはり外国の方は忍者が好きですからね、これは詳しく調べてみる価値があるだろう、と。すると、『早道之者』は明治初頭まで活動していた記録があることを知り、びっくりしたんです。他の地域の忍者はとっくに廃れてしまっているのに、彼らはなぜ200年に渡って活動を続けることができたのか。そんな疑問を解くために、ぜひ学生たちと一緒に研究をしたいと、忍者部の創設を思いつきました」
これが今からおよそ4年前のこと。清川教授はすぐに大学側にかけ合い、サークルではなくいきなり部活として成立させることに成功する。かくして翌年(2016年)、青森大学に日本初の「忍者部」が誕生した。
「活動の構想としては、忍者の研究がまず1つ。さらに、青森大学には何年も連続して日本一に輝いている新体操部がありますから、彼らの力を借りることができれば、忍者ショーも実現できるのではないかという期待もありました」
つまり、研究とアトラクションの2本立て。当初は思ったように部員が集まらず、苦労した時期もあったようだが、地道なリクルーティング活動により、少しずつ部員が集まり始めた。その中には新体操部出身の身軽な学生も含まれ、青森大学忍者部は早くも2年目にして忍者ショーの開催に漕ぎ着ける。
「初ステージは青森駅構内のコンコースで、これはJRからのオファーで実現したものでした。お正月の寒い時期でしたが、忍者の姿をした学生たちによるアクションは物珍しかったようで、評判は上々。これ以降、県内の様々なイベントや小中学校などから声がかかるようになり、昨年(2018年)は年間30回ほどのショーを行いました」
こうして忍者部の活動が認知されるほど、津軽にも忍者が存在したことが少しずつ周知されていく。まさに清川教授の目論んだ通りの展開だった。
ねぶた祭りのルーツは伊賀忍者にあった!?
清川教授の忍者研究も急速に進み始めた。東北は忍者研究の後発地域だが、近代まで活動していた「早道之者」は、忍者としては資料や証言が比較的豊富であることも追い風だった。
「たとえば弘前藩の200年余りに渡る藩政が記録された『弘前藩庁日記』には、『早道之者』の活動の一部が記録されています。また、『早道之者』の子孫の方が、今も青森のどこかに存在するはずですから、武士の家系図なども貴重な資料です」
また、忍者部の活動を通して清川教授の取り組みが知られるようになると、思いがけない情報が寄せられることもある。その最たるものが、冒頭の忍者屋敷発見だった。
「忍者研究というのは、いわば点と点を結ぶ作業なんです。ある事実を突き止めたことで、歴史上のさまざまなパーツが突然繋がったりすることがある。これが面白いところですね。私が最近注目しているのは、ねぶた祭りのルーツに、実は伊賀忍者が関係しているのではないかという説です」
夏の大祭、ねぶたの起源には諸説ある。坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、敵をおびき寄せるために笛や太鼓で囃し立てたのが始まりとする説もあれば、七夕祭りや神道の禊祓をルーツとするとの説もある。ところがもし、忍者に起源があることが証明できれば、「青森=忍者」のイメージは一気に強固なものになるはずだが――。
「戦国時代に津軽藩の家老を務めた、服部長門守康成という伊賀忍者がいます。あくまで二次史料に過ぎませんが、この服部長門守康成が、文禄2年(1593年)に京都で大灯籠を披露していて、それがねぶたのルーツになったという記述が、江戸時代の文献に残されているんです」
服部長門守康成は関ヶ原の戦いで武功をあげた伊賀の忍者で、慶長12年(1607年)に弘前藩の家老になったとされる人物。その際に持ち込んだ大燈籠がねぶた祭りに転じたというわけだが、一方で、そんな戦国時代の真っ只中に祭りを興したとするのは無理があると、否定的な意見も多い。
「それでも、戦乱の世を終え、江戸時代に入ってからねぶた祭りが始まったと考えれば、この仮説に矛盾はないはず。何より気になるのは、いくら二次史料とはいえ、こうした大きな祭りを時の藩主ではなく、家老である服部長門守康成が持ち込んだと記されていることに、何か特別な事情があったのではないかと勘ぐりたくなるんですよね」
こうして話を聞いていると、歴史はパーツとパーツの集積であることがよくわかる。もしも、忍者研究がねぶたのルーツ解明に繋がるようなことがあれば、これもまた歴史的な大発見となるだろう。今後の研究成果を楽しみに待ちたいところだ。
青森を伊賀や甲賀に負けない忍者の街に
忍者部の活動は、月曜と木曜の週2回。取材に訪れたこの日はまず、次の忍者ショーのキャスティングをどうするか、というミーティングから始まった。ショーが行なわれるのは基本的に週末だから、メンバーそれぞれのスケジュールを確認した上で配役を固めることになる。
学業やアルバイトと両立しながらの活動は、学生忍者たちにとって決して楽ではないだろう。それでも地域から求められ、老若男女から拍手喝采を浴びるこの取り組みはやはりやり甲斐があるようで、メンバーの顔は総じて明るい。
「細かなアクションやBGMの選定などは、すべて学生たちに任せています。こうした活動を通じて、多くの方に地域の歴史を知ってもらうきっかけになれば嬉しいですね」
オリンピックイヤーを目前に控え、これからますます多くの外国人観光客がやって来ることを踏まえれば、忍者部の活動もいっそう注目されるに違いない。
清川教授は言う。全国各地に忍者の活動実績は数多あるが、「弘前の忍者は頭一つ抜けていると思います」と。実際、戦国時代から400年もの長期間活動した例は稀であり、甲賀忍者として確かな技能を備えていた「早道之者」は、今では他の地域の研究者からも注目されている。だからこそ、次々に飛び込んでくる新情報、新資料を精査して、その実態を解明するのは有意義なことだ。そしていつの日か、青森を伊賀や甲賀に負けない忍者の街に育てたいというのが、清川教授の大目標である。
――なお、この取材を終えて帰京した直後、清川教授からこんなメッセージが届いた。
「『早道之者』の頭領の末裔らしき人物を発見しました。これから詳しい調査を行ないますが、ある程度の証拠が見つかるようなら、きっと大きなニュースになりますよ」
津軽では今まさに、忍者研究が日進月歩で進んでいることを実感させるこの臨場感。忍者不毛の地と思われてきたこの地域から、世間をあっと驚かせる新事実が飛び出すのも、時間の問題かもしれない。
友清 哲
フリーライター
旅・酒・遺跡をメインにルポルタージュを展開中。主な著書に『この場所だけが知っている 消えた日本史の謎』(光文社知恵の森文庫)、『作家になる技術』(扶桑社文庫)、『一度は行きたい戦争遺跡』(PHP文庫)、『物語で知る日本酒と酒蔵』『日本クラフトビール紀行』(ともにイースト新書Q)、『怪しい噂 体験ルポ』『R25 カラダの都市伝説』(ともに宝島SUGOI文庫)ほか。
清川繁人
1960年、青森県八戸市生まれ。青森大学薬学部教授。弘前藩の忍者が組織的に長期活動を行なっていたことを知り、独自に研究をスタート。2016年には日本で初めて「忍者部」を創設。学生と共に忍者の調査を行なう傍ら、イベントでの忍者ショーを手掛けている。国際忍者学会会員。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190604-00010002-finders-ent&p=1

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