HUFFPOST 2019年06月12日 07時30分 JST | 更新 20時間前
そこで感じたのは、ミュージアム空間でマンガを鑑賞することへの違和感だった。
ギリシャ神殿のような博物館のファサードに巨大な縦長の看板。黒い背景色に漫画『ゴールデン カムイ』のヒロインの横顔が際立ち、「マンガ」というカタカナ文字がオレンジの蛍光色で目をひく。
ここは、ロンドンの大英博物館。海外では最大級と謳われる漫画の展覧会が始まった。
この博物館の特別展示室は大小含め少なくとも5箇所はあるが、「マンガ展」は博物館が肝いりの展覧会に使う、最大の特別展示室が使われた。
これまでの日本関係の展示━「人間国宝展」や「北斎展」など━でも使ったことのない展示室であり、それを使うというだけで、大英博物館としていかに力が入っているか伺える。当然、展示点数も多く、手塚治虫、赤塚不二夫、萩尾望都、鳥山明、こうの史代、谷口ジロー等、50人の作家による約70点の作品(その多くは原画)が一挙に集められた。
大展示室は、100メートル平方程の大きさがあり、長方形の形状をしているのだが、全体を見渡してわかるのは、初めての大規模展に相応しく、漫画とは何かを総括的に俯瞰していることだ。次のような構成にも、その主旨が表れている。
1,表現としての漫画を紹介するイントロダクション
2,日本の漫画史
3,いかに消費されるか−書店やコミケ
4,テーマの多様性
5,融合する漫画−アートやゲーム
6,スタジオ・ジブリ
もちろん、日本のミュージアムにはない視点もいくつかあった。
まず、イントロダクションで、漫画の読み方が示されていること。例えば、漫画のコマは右から左へ読むこと(左から右に書かれるアルファベットの文化圏からは読む時の引っ掛かりになる)、擬音語や擬声語、あるいは感情が、ヴィジュアルで伝えられることとその凡例(渦巻き模様は早く走っていることを意味するとか)。
次に、漫画という文化がいかに日本社会に浸透しているかを示していること。『ゴルゴ13』を使った外務省のポスター、漫画のキャラクターを使った鉄道のポスター、実写と漫画を組み合わせたパラリンピックの広告映像などなど。漫画はジャンルではなく、もはやメディアだということを再認識した。
そして、これが大英博物館ならではなのだが、葛飾北斎や河鍋暁斎などの当館コレクションと並列させているのだ。こうした点は、在英日本人のわたしの視点から、現代日本の文化や社会へのイギリスのまなざしが浮き彫りになって興味深いことだった。
ところで、わたしが訪れたのは平日の午前中だったのだが、その割には来館者が比較的多かったように思う。
予想通り、年齢層も平均的に若い。だが、大人だけで来ている人々もちらほらみかけた。若い層はおそらく漫画のファンで、友人や家族と一緒に来ているに違いないが、大人の来館者は何を目的にして訪れたのだろうか。まだ、展示が始まったばかりだし、世界に冠たる大英博物館でマンガをテーマに展示する、そのこと自体に関心をもった人たちなのかもしれない。少なくとも、西洋においても、漫画が子どもだけのものではないこと、見過ごせない新しい文化であるという認識が広まっている。
実際に、現地の新聞等をみると、たくさんのレビューが出ている。日本関連の展示を取り上げる記事としては、いつになく多い気がする。中には、古代文明の宝庫である大英博物館で、まだ歴史の浅い漫画を大々的に特別展示で扱うことは如何なものか、という疑問の声もある。
同じような議論は日本のミュージアムが漫画を展示するようになった1990年代にも起こったはずだ。今や漫画を展示することは当たり前になってきて、議論の火も小さくなったことだろう。今回の展示が社会の話題になるのは、なんといっても会場が大英博物館だからに違いない。
しかし、西洋でもミュージアムでサブカルチャーを展示することは決して新しいことではない。漫画に限らず、さまざまな実践(「デヴィット・ボウイ展」など)がすでに起こっており、ミュージアム展示として定着した感があるし、先述の議論も落ち着いてきている。ミュージアムが社会の鏡であり、社会が変化するならば、カルチャーや芸術の定義についての既成概念にとらわれず、常にチャレンジしていくことは健康なことだと思う。
だが、わたしが展示全体をみて改めて疑問に思ったのは、ミュージアムという空間に漫画というメディアがうまく溶け込まないことだ。
漫画は閉じられた空間の中、一人で読まれるものだ。わたしの初めての漫画体験というべきものは、小学生の時の家族旅行で、宿に置いてあった白土三平の『カムイ伝』を読み漁ったことだった。家族は海に行くのに、わたしは拒否して日の当たらない部屋に籠って、白土の世界に潜り込んでいった。
難しい言葉なぞ軽々スルーして、ページをめくり、そのシークエンスのミクロ世界にワープすることが漫画体験の魅力なのだ。それに対して、ミュージアムは大きく開かれたパブリックな空間だ。一人の世界は作りにくいし、シークセンスを楽しむことはできない。
学芸員もそのギャップを悩んだに違いない。展示室の壁が黒一色だったのは、少しでもそれを埋めるためではないか。
西洋のミュージアムの建物は天井が高いが、この展示室も古代エジプトの巨大な像も置けるほどの高さがある。片や漫画は小さいし、展示は目の高さになくてはならない。そうするとどうしても、空疎な空間が上部にできてしまう。だからだろう。この展示では、天井から漫画の大きく拡大したコピーがぶら下がっていた。
確かに、混雑時に近づいてモノが見られない人のフラストレーションを和らげる機能は果たせる。しかし、それらが展示に大きな意味をなしていたとは思えず、展示室全体のレイアウトからはむしろ目障りでもあった。
本棚を並べて、そこにある漫画本や雑誌を、誰でも自由に手にとって読むことができる空間もあった。それが展示の中央にあったのも、そのミクロ世界にワープする体験が重要であることを知りつつ、なんとか展示という空間の中でも、表したかったからではないか。
展示全体の感想としては、確かに、漫画についての全体を理解することができた。だが、何か大きな発見や感動を覚えるような、印象深い博物館体験ではなかったのである。
その理由のひとつは、やはり漫画という世界とミュージアムという空間の決定的な違いにあるのだと思う。多くの現地の新聞記事の記述が全体的に冷ややかであることも、この展示がいわば優等生的な漫画の総括にすぎなかったからだろう。マンガという現代の文化、紛れもなく日本の社会に深く浸透し、世界に影響を与えている文化をミュージアムで表象することに意味があることは認めながらも。
ところで、なぜ、この展示のポスターに『ゴールデン カムイ』のキャラクターが使われたのか。それは、なぜ、この年に「マンガ展」を開催したのかという問いと結びつく。
答えはずばり、来年2020年の東京オリンピックだ。世界が注目する一大イベントに、日本文化の多様性を示したいという日本政府の強い意向がある。多様性の代表選手がアイヌ民族で、開会式にはその伝統的な踊りが起用されるらしい(アイヌだけが取り上げられることは、さまざまな疑問を呼ぶが、ここでは掘り下げない)。
翻って、日本のミュージアムの歴史を振り返れば、アイヌなどマイノリティー民族に対して公平な表象をしてきたとは言い難い。今回の展示でも、ミュージアムでの表象と近代オリンピックというイベントの双方に、さまざまな政治性を垣間見たのはわたしだけだろうか。
©Satoru Noda / SHUEISHA
野田サトル『ゴールデン カムイ』
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cfdd682e4b04e90f1cb8cdf
そこで感じたのは、ミュージアム空間でマンガを鑑賞することへの違和感だった。
ギリシャ神殿のような博物館のファサードに巨大な縦長の看板。黒い背景色に漫画『ゴールデン カムイ』のヒロインの横顔が際立ち、「マンガ」というカタカナ文字がオレンジの蛍光色で目をひく。
ここは、ロンドンの大英博物館。海外では最大級と謳われる漫画の展覧会が始まった。
この博物館の特別展示室は大小含め少なくとも5箇所はあるが、「マンガ展」は博物館が肝いりの展覧会に使う、最大の特別展示室が使われた。
これまでの日本関係の展示━「人間国宝展」や「北斎展」など━でも使ったことのない展示室であり、それを使うというだけで、大英博物館としていかに力が入っているか伺える。当然、展示点数も多く、手塚治虫、赤塚不二夫、萩尾望都、鳥山明、こうの史代、谷口ジロー等、50人の作家による約70点の作品(その多くは原画)が一挙に集められた。
大展示室は、100メートル平方程の大きさがあり、長方形の形状をしているのだが、全体を見渡してわかるのは、初めての大規模展に相応しく、漫画とは何かを総括的に俯瞰していることだ。次のような構成にも、その主旨が表れている。
1,表現としての漫画を紹介するイントロダクション
2,日本の漫画史
3,いかに消費されるか−書店やコミケ
4,テーマの多様性
5,融合する漫画−アートやゲーム
6,スタジオ・ジブリ
もちろん、日本のミュージアムにはない視点もいくつかあった。
まず、イントロダクションで、漫画の読み方が示されていること。例えば、漫画のコマは右から左へ読むこと(左から右に書かれるアルファベットの文化圏からは読む時の引っ掛かりになる)、擬音語や擬声語、あるいは感情が、ヴィジュアルで伝えられることとその凡例(渦巻き模様は早く走っていることを意味するとか)。
次に、漫画という文化がいかに日本社会に浸透しているかを示していること。『ゴルゴ13』を使った外務省のポスター、漫画のキャラクターを使った鉄道のポスター、実写と漫画を組み合わせたパラリンピックの広告映像などなど。漫画はジャンルではなく、もはやメディアだということを再認識した。
そして、これが大英博物館ならではなのだが、葛飾北斎や河鍋暁斎などの当館コレクションと並列させているのだ。こうした点は、在英日本人のわたしの視点から、現代日本の文化や社会へのイギリスのまなざしが浮き彫りになって興味深いことだった。
ところで、わたしが訪れたのは平日の午前中だったのだが、その割には来館者が比較的多かったように思う。
予想通り、年齢層も平均的に若い。だが、大人だけで来ている人々もちらほらみかけた。若い層はおそらく漫画のファンで、友人や家族と一緒に来ているに違いないが、大人の来館者は何を目的にして訪れたのだろうか。まだ、展示が始まったばかりだし、世界に冠たる大英博物館でマンガをテーマに展示する、そのこと自体に関心をもった人たちなのかもしれない。少なくとも、西洋においても、漫画が子どもだけのものではないこと、見過ごせない新しい文化であるという認識が広まっている。
実際に、現地の新聞等をみると、たくさんのレビューが出ている。日本関連の展示を取り上げる記事としては、いつになく多い気がする。中には、古代文明の宝庫である大英博物館で、まだ歴史の浅い漫画を大々的に特別展示で扱うことは如何なものか、という疑問の声もある。
同じような議論は日本のミュージアムが漫画を展示するようになった1990年代にも起こったはずだ。今や漫画を展示することは当たり前になってきて、議論の火も小さくなったことだろう。今回の展示が社会の話題になるのは、なんといっても会場が大英博物館だからに違いない。
しかし、西洋でもミュージアムでサブカルチャーを展示することは決して新しいことではない。漫画に限らず、さまざまな実践(「デヴィット・ボウイ展」など)がすでに起こっており、ミュージアム展示として定着した感があるし、先述の議論も落ち着いてきている。ミュージアムが社会の鏡であり、社会が変化するならば、カルチャーや芸術の定義についての既成概念にとらわれず、常にチャレンジしていくことは健康なことだと思う。
だが、わたしが展示全体をみて改めて疑問に思ったのは、ミュージアムという空間に漫画というメディアがうまく溶け込まないことだ。
漫画は閉じられた空間の中、一人で読まれるものだ。わたしの初めての漫画体験というべきものは、小学生の時の家族旅行で、宿に置いてあった白土三平の『カムイ伝』を読み漁ったことだった。家族は海に行くのに、わたしは拒否して日の当たらない部屋に籠って、白土の世界に潜り込んでいった。
難しい言葉なぞ軽々スルーして、ページをめくり、そのシークエンスのミクロ世界にワープすることが漫画体験の魅力なのだ。それに対して、ミュージアムは大きく開かれたパブリックな空間だ。一人の世界は作りにくいし、シークセンスを楽しむことはできない。
学芸員もそのギャップを悩んだに違いない。展示室の壁が黒一色だったのは、少しでもそれを埋めるためではないか。
西洋のミュージアムの建物は天井が高いが、この展示室も古代エジプトの巨大な像も置けるほどの高さがある。片や漫画は小さいし、展示は目の高さになくてはならない。そうするとどうしても、空疎な空間が上部にできてしまう。だからだろう。この展示では、天井から漫画の大きく拡大したコピーがぶら下がっていた。
確かに、混雑時に近づいてモノが見られない人のフラストレーションを和らげる機能は果たせる。しかし、それらが展示に大きな意味をなしていたとは思えず、展示室全体のレイアウトからはむしろ目障りでもあった。
本棚を並べて、そこにある漫画本や雑誌を、誰でも自由に手にとって読むことができる空間もあった。それが展示の中央にあったのも、そのミクロ世界にワープする体験が重要であることを知りつつ、なんとか展示という空間の中でも、表したかったからではないか。
展示全体の感想としては、確かに、漫画についての全体を理解することができた。だが、何か大きな発見や感動を覚えるような、印象深い博物館体験ではなかったのである。
その理由のひとつは、やはり漫画という世界とミュージアムという空間の決定的な違いにあるのだと思う。多くの現地の新聞記事の記述が全体的に冷ややかであることも、この展示がいわば優等生的な漫画の総括にすぎなかったからだろう。マンガという現代の文化、紛れもなく日本の社会に深く浸透し、世界に影響を与えている文化をミュージアムで表象することに意味があることは認めながらも。
ところで、なぜ、この展示のポスターに『ゴールデン カムイ』のキャラクターが使われたのか。それは、なぜ、この年に「マンガ展」を開催したのかという問いと結びつく。
答えはずばり、来年2020年の東京オリンピックだ。世界が注目する一大イベントに、日本文化の多様性を示したいという日本政府の強い意向がある。多様性の代表選手がアイヌ民族で、開会式にはその伝統的な踊りが起用されるらしい(アイヌだけが取り上げられることは、さまざまな疑問を呼ぶが、ここでは掘り下げない)。
翻って、日本のミュージアムの歴史を振り返れば、アイヌなどマイノリティー民族に対して公平な表象をしてきたとは言い難い。今回の展示でも、ミュージアムでの表象と近代オリンピックというイベントの双方に、さまざまな政治性を垣間見たのはわたしだけだろうか。
©Satoru Noda / SHUEISHA
野田サトル『ゴールデン カムイ』
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cfdd682e4b04e90f1cb8cdf